差別、偏見、格差に特権、利権・・・皆さん聖職者のように平和・平等主義者のようですが世の中そうであれば、争い、紛争、戦争、食糧問題、不正、汚職、裏取引、イジメ、性差別や悪事は起きない。優位性や自身の保身のためにこれを使うのは当たり前の話だ。
移住で地方の農村にやって来た家族を想像してほしい。まずは先達の住人から消防団に入らないと村に住む資格はないと脅され渋々パパが消防団に入る。そのうえママはママでゴミの出し方や回覧板の廻し方など微に入り細に入り意見される。
これって、新参者に対するイジメどころか差別だ。こうした排斥主義は昔から、今でも、職場や学校、地域に根付いている。これを風習、習慣や習わしといった言葉に置き換えているだけだ。つまり差別、偏見は絶対優位性を保つ道具に他ならない。
時に、何かといえば二の句は「~ハラ」「~ハラ」「~ハラ」と鬼の首でも取ったよ うな連中が多い。じゃあ巨人の前監督を叩けば「はらはら」にでもなるというのか?大体、差別批判をする人間ほど「これは区別であって差別ではない」といった論理のすり替えはお手の物、
こういう人間ほど差別をしたがる妙な構図が生まれる。差別を糾弾する人こそ、実は最も差別的であるという場合も少なくない
一例を言えば、国籍差別をする人がいたとする。C国人やK国人を心から蔑むJP人だ。それに異を唱える人は、ほとんどの場合で国籍差別をする人を蔑んでいる。
だから、国籍差別をしている人の心に響かない。おかげで、国籍差別はなくなるどころか、ますます増える。これ当然のこと、両国が歩んだ歴史を振り返ればそのことが良く分かる。
男女差別もこれとまた一緒だ。まず、女性を蔑む男性がいたとする。すると女性は、その男性を蔑む。そうして、蔑みの連鎖が生まれる。そんなふうにお互いに蔑み合っているから、いつまで経っても問題が解決しない。元々こうしたカップルは互いが好きではないので本性がぶつかる。
それが当然とおもえば、世の中で起きていることなど大したことはない。差別する人たちを差別する。これが平和主義や博愛を説いている人たちの本性だ。それは、差別するということが人間の本質の一つだからだ。というより、生き物としての本質の一つだからだ。人間は、そもそも差別する生き物であるそういうふうに生き物としての本質に抗えながら生きている。それもまた人間の本質だ。まずは「誰の心にも差別心はある」というのを認めることだ。