Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

穴切(アナギリ)

 「穴切り」、この言葉の響きを聞いて、「ハタっ!」とった思った方は根っからの地元通のtuu!この響きいかにもという感じですよね。ことあろう、今は昔、我が徳兵衛ここ「穴切小学校」の繁く通っい、首席でご卒業あそばしたお子ちゃまでありました。学校の隣接には県の重要文化財の「穴切神社」もある。

 

さて、この穴切の由来を紐解くと、外から見るとこれが結構奥深い。「内」を信州から呼び寄せたとき義父はこの地の名に強い抵抗(拒絶感・難色)を示した。そこで当方自らが当地のご紹介と相成った次第。

 

 近くには、春日小学校もあって甲府の飲み屋街のご子息がカネ振りもよくトッポイ連中が多かったことを思い出す。この小学校は裏春日と言われる飲み屋の子息が多かったせいで校風がそうなった。今は穴切小学校も春日小学校と相生小学校も統廃合されて名を「舞鶴小学校」に改めた。

 

 市内の旧町名はその歴史と謂われを物語るが今それを知る人も少ない。

 

 さて、穴切。ウィキペデイアによると・・・

 「明治時代新たな遊廓設置場所は甲府市街地の西、相川左岸の通称穴切田圃(現在の甲府市宝1丁目)と呼ばれる水田一帯であった。大火のあった明治40年の年末には22楼の遊廓が全て移転を完了し、穴切遊廓(別名、穴切新地)が成立した。

 

 公に認められた山梨県の遊廓は上野原にあった僅か2軒の小規模な関山遊廓と甲府の穴切遊廓の2箇所のみであり、村行彰著『日本遊里史』(1929年)の巻末付録として掲載されている『日本全国遊廓一覧』によれば、穴切遊廓の貸座敷数(軒数)は21軒、娼妓数201名を数えた。

 

 また、別の昭和初期の記録によると娼妓数は280名を数えており、これは遊廓を擁する他の同規模地方都市と比較すると突出しており 、甲信地方では最大級の遊廓であった。

 

 しかし、1945年(昭和20年)7月の甲府空襲により穴切遊廓は全焼し[3]、翌1946年(昭和21年)にGHQの指令により公娼制度が廃止されると、穴切遊廓のあった一帯は、カフェーや料亭などに看板を変えた、いわゆる「赤線」地域として存続したが、1956年(昭和31年)の売春防止法の成立、1958年(昭和33年)の同法施行により、穴切遊廓は完全に消滅した。

 

 往時を偲ばせるものは、古い建物の外壁に僅かに残る公安委員会によるカフェー許認可プレートのみで、2020年現在の穴切地区はマンションなどが建つ普遍的な住宅街となっている。山梨県内にはとても変わった地名がたくさん残っています」とある。

 

 しからば、「穴切地区」とは、甲府駅から南西に向かって徒歩5分から8分ほどの場所。現在は甲府市宝。ところどころに、黒板塀のりっぱなお屋敷もある。

 

 大門(おおもん)の中には何軒もの遊郭が軒を連ねていた。小学の同級生もこの大門中の〇〇楼(ここはお知らせを差し控える)の遊女置屋の息子だった。

 

 でも、学校も神社も遊び場もあり、かつては子どもたちの賑やかな声で活気のある地域だったのだ。

 

 こんな「思ひで」をよくよく口にするようでは「老いぼれ」を自覚せねばあるまい。歳はとるまい、拾うまい!!