Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

ヒゲの園長先生

 春の選抜高校野球も終わり、「祭りのあと」といった寂寞な気持となる。こうなると気が引け、とかく昔のことを振り返りたくなる。広島の広陵高校青森山田に負け、その雪辱を中央学院大学付属高校が果たした。まるで、広島の仇は千葉で!とでも言わんかのごときだった。さて、今日は同じ付属高校でも徳兵衛の地元で昨春選抜高校野球優勝の山梨学院大学付属高校関連のお話。

 

 この山梨学院もベスト8まで勝ち残って校旗掲揚と校歌斉唱が流れる中、ふとあることに気が付いた。なんと学院高校校歌の作詞が「古屋眞一」となっているではないか。この作詞家は当時学生や関係者から「(大学の)院長先生」と呼ばれていた。

 

 何故こんなお話をするかというと、当時の学院大学は4年生大学でもなく付属高校も併設されておらず、児童教育、栄養科などしか有しない単科短大だった。そんな背景があったのか短大にも拘わらず「幼稚園」だけは設けていた。

 

 甲府の外れ、酒折のブドウ畑の中にポツンとあった大学校舎に荒れたグラウンド。経営陣に古屋一族が名を連ねた山梨学院大学。当時は地元の衆からは「ガクイン」、「ガクイン」とその教育レベルの低さが蔑視されていた。

 

 ただ、唯一県内では初めての山梨交通(旧共済電鉄)の路線バスを払い下げてもらってのロングノーズの園へのスクールバスを市の中心部から走らせていた。いまでも水たまりの砂利道をガタガタとけたたましい音を立てて園児を乗せて走行していたことを思い出す。

 

 それが、今はどうだろう東大に何人も排出する名門私立大学に成長し、大学の周りの殆どを買収。野球専用グラウンドは持は、学生寮が林立するはで公立高校を押しのけ一躍進学校に躍り出た。

 

 そのきっかけを作ったのが順大から招聘した上田監督の下、あの「ガクイン」が箱根駅伝に出場。彼の戦術はイワシの群れにケニヤ出身のおぼこを連れてきて驚かせ鍛える。しかも、そのイワシは高校時代1番ではなく2番、3番さらには補欠選手を全国から集めてモチベを挙げて競わせる手法だ。その結果、箱根も何度も総合優勝を経験し全国区に名を挙げた。さすがにこれには地元も驚いた。

 

 多くの高校がそうだが、とりわけ私立は学校運営のためにこうした進学路線とスポーツ路線(文武両道戦略)をとる。しかも全国にTV中継される甲子園や箱根駅伝は格好の自校や学校法人グループのPRともなる。

 

 野球留学や陸上留学が流行るのもそのせいだ。前述の青森山田然り山梨学院然り、津軽弁を話せる選手や地元中学から正選手になった生徒は殆どいない。だからこそ一方で地元の熱はさほど上がらない。

 

 なにゆえ、本日のお話をしたかというと、スクールバスに毎日乗って学院大学付属幼稚園(担任は確か樋口先生かと・・)に通ったのはことあろう「この徳兵衛」なのだ。しかも「ヒゲの園長先生」は、かの「古屋眞一」だった。今から70年以上も前のなつかしいオモヒでだ。