Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

「花は~花は咲く」がいずれ散る

 東日本大震災の時に西田敏行らを中心に盛んに歌われた「花は咲く」、でもこの咲いた桜はいずれは散る。百田尚樹の「永遠の零」ではないが特攻隊員らが交わした言葉に「散る桜 残る桜も 散る桜」がある。これは究極の死生観を表した句かもしれない。

 

 冷淡なようだが地震や風水害が起きるたびに荒野となった被災地を見、人のココロに寄り添うような励まし、支援や応援でも、栄華、隆盛や咲き誇った桜の花のような「良き時」もいずれは衰退し滅び、「散る」のだ。

 

 このフレーズ、実は禅語から来ていて、良寛和尚の辞世の句と言われている。

 つまり、今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないということ。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。

 

 人の一生も亦同じ。人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっていて、生まれたから、死ぬのことが宿命なのである。

 

 癌患者や重篤患者もそうだが死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることも同じだ。人に余命というものがあれば、人は生まれた時点で「寿命」というこの「余命」を宣告されて生きている。いつ旅立つのか1年先が不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはない。

 

 「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。

だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」と述懐する人もいる。

 

 そうした意味では人は生まれながらにして致死率100%の寿命を背負わされている。病に冒されたから死ぬのではなく、生きているからこそ死ぬのである。

 

 良寛和尚の残した辞世の句は、哀れで、儚い。人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえたり、命を諦めた言葉のようにも受け取れる。

 

 禅においては「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられているようだ。

 

 さてさて、拙者まだまだこの境地に達せず、日々煩悩に苛まされている。今、改めて

「散る桜 残る桜も 散る桜」を噛みしめている。が、お言葉ですが「桜は散ったところで毎年春に咲くが人の一生は散ってしまえば二度と咲かない」ことの真理は如何に。