Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

正規分布

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 よく云われることだが重篤患者に家族が呼ばれて、医者から「余命三ヶ月です」と冷酷な死刑宣告が言い渡さることが良くある。また、手の施しようがなく積極的な治療をしないまま死を迎える患者や手術で患部を診たら、進行が速い、又は周辺に散り過ぎてとても手術には不向きで、却って患者の死期を早めてしまうため途中で「インオペ」に切り替えてそのまま何もせず閉じてしまうと云った判断もある。

 

 さて「余命三ヶ月」とは、医者が患者によく伝えることだが、実は縦軸に死亡者数、横軸に延命期間を取った正規分布をみると信頼区間99%で存命確率の高い中央値はおよそ半年が出る結果となっている。

 

 それでも、医者は敢えて「三か月」を口にする。ただこれは統計学や確率論に根差しているので、当然にして1か月で亡くなる方もいれば、2か月で絶命する方もいる。反対にテール(信頼区間の長い所)では、1年、2年と長く延命する患者もいる。

 

 では、なぜ中央値の半年とは云わず、3か月と云うのか。答えは簡単だ、3か月を過ぎてもなお、お元気でいらっしゃると、医者は患者の生命力(頑張り)を絶賛する。すると患者ももう少し生きられるのではないかと心も体も奮い立たせる。それにそれを聞いた家族も周囲もその後なくなったにせよ、悪い気はしない。つまり、医者と患者にとっても双方向で保険を掛けているようなものだ。だから3か月、されど3か月なのだ。

 

 つぎに、「生命といのち」について考えてみよう。生命が失せるとは医学的、肉体的に生物学的にも存命できなくなる状態を指す。ところが命とは亡くなった人の生きざまや思想、アイデンテイーや考え方であって生命が失せてもいのちは失せない。それは家族や人の心に刻まれているため、永遠に生き続けるのだ。

 

 生命を失う死の恐怖に怯える患者は、大枚を払ってまでもいいから医者に命乞いをする。「先生何とかなりませんか?どうにかしてください!」といったその期に及んでもなお醜態を晒す。この方の最期は九相図のむくろ(骸)と同じだ。これが前者。

 

 ところがいのちという概念を理解している患者は、腹が座っているので動じない。死に際になっても現実を直視できるている。だから「先生、これまでお世話になりありがとうございました。それではボツボツ逝って参ります」と旅行にでも行くような雰囲気を醸し出す。これが後者。

 

 さて、自分はどちらなのか?と自問自答してみた。当然に暴れるに暴れて「この藪医者が・・」と罵り、悪態をつき、恨み節を口にしながら苦悶に満ちた死に顔でこの世を去るだろう。皆さんはすでにお判りだろうが、当然、人間ができていない拙者は前者だ。