Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

善意と悪意の境界線

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 最近、愛読者の方々の裾野のが拡がり、恐悦至極に存じます。そのうちメールを差し上げますのでお待ちください。10月に入ったとはいえ、昨晩は猛烈な夕立と雷に見舞われました。そちらは如何でしたでしょうか?何もなければよろしいのでしょうが。

 

 今日は、子ども食堂について考えます。フードバンクも集会所もそうですがここは、社会的弱者に対する支援・援助の場所ではアリマセン。それこそ強き者の弱き者への驕り何のかもしれません。

 

 こうした組織や活動は、一方通行であってはならないのです。それでも似た様な世界は現存します。例えば、介護施設や精神病棟の入居、入院されている方々のことを考えてみて下さい。親御さんをはじめそれまで面倒を見てきた周囲の方々も最後には疲労困憊。そうして、無理やりにでもこうした施設に封じ込めようとします。

 

 その方が、それまでの介護、看護から解放され、自身の生き死にかかる呪縛から解かれるのでこの上もないことでしょう。ボケ老人しかり、生活困窮者しかり、精神病患者しかりであります。

 

 こうした受け皿となる施設や病院内での出来事は、後見人とて、それを知っても知らないフリをするのが常である。「口外も訴えもしませんから、どうかずっと居させてください」と、暴力事件が起きても、殺人事件がおきてもこれ幸いと口を噤む。旧大口病院で点滴に消毒液を入れて3人を殺めた事件、津久井やまゆり園事件でもそうだが遺族は大声を出さない。ここに社会の矛盾と本質をみます。

 

 冒頭の「こども食堂」、生活困窮者のこどもを食事の面で救おうと作られたものだと思いがちだがそうではない。学校でも家庭でも、親の手造りの食事を食べたこともない、行き場のない子供たちが集える場所なのです。

 

 そこには友達がいて、まともな大人もいる。そこに会話が生まれ、交流が産まれる。そうした機会と場所を提供しているのがこうした施設なのである。外から見ると哀れで人助けの助けのためで、そこに通う子供や老人は貧窮の人々と思うのはまさに一方通行の誤った見識ではないのでしょうか。

 

 人は会話を求め、交流を求める。真のボランテアは災害時の炊き出し(奇をてらって芸人やタレントによるイベントや物資提供は単なる売名行為)ばかりではない。子供食堂で初めてコロッケを口にした一人の子供が、女性店主に向かって「これなあ~に?」と聞く。「これはコロッケという食べモノだよ」と応える。この会話のやり取りを見て多くの人はコロッケも食べたことも、知らない子は可哀そうだと思う。だから、そうした活動は社会的救済慈善活動として評価を受けるのです。

 

 その女性店主はその後にこういう言葉をその子に掛けた。「今日はコロッケ作り過ぎたから、これ余ったのでお家に持って帰ってね」、「今度、メンチカツを作って待っているから、また来てね!」

 

 さて、この会話を聞いて皆さん、善意と悪意の境界、本来の施設、病院の在り方、地域社会、連携や支援とは何かをどう考えます?