Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

仏の顔も三度

 身に染みてこの背景については後日、お伝えします。

 

 以下、コトバンクからの引用

 

(「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」の略) どんなに温和な人であっても、無法なことをたびたびされればしまいには怒る。

浮世草子・傾城禁短気(1711)五「仏(ホトケ)の顔も三度とやらにて、いかな気の永い大臣もむっとして来て」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

 

 デジタル大辞泉 「仏の顔も三度」の意味・読み・例文・類語

仏ほとけの顔かおも三度さんど

 

 《いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から》どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

 

 ことわざを知る辞典 「仏の顔も三度」の解説

 

 仏の顔も三度

 

 どんなに穏やかな人でも、面と向かって顔をなでるような失礼なことを三度も繰り返されては怒りだす。これまで大目に見てきたことも、度重なればただではすまないというたとえ。

 

 [使用例] 「もうあなた。みんなわたしが悪いんですから。」「あやまりさえすれば、それでいいと言うもんじゃない。仏の顔も三度という事があるぜ。何ぼ僕が甘いからッて、そうそう踏付けにばかりされたくないからな」[永井荷風*二人妻|1922~23]

 [使用例] 「普通ならば、伝てん馬ま町ちょうものだが、〈略〉今川古流のために忍んでおいて遣わすゆえ、以後きっと斯か様ような真似致されるなよ! 仏の顔も三度と言う位なものじゃ。二度と不埒働くと、右門のまなこがピカリと光りまするぞ!」[佐々木味津三右門捕物帖|1929]

 

 [解説] 江戸中期から使われたことわざで、古くは「仏の顔も三度撫なずれば腹〔を〕立つ」といっていました。ことわざは、広く知られるようになると、削ぎ落とせるものはすべて削ぎ落とすのが通例で、明治期になると、ほとんどのことわざ集が「~三度」でとどめています。

 

 「仏」は穏やかでめったに怒ることのない者のたとえで、「も」でいっそう強調されています。用例をみると、二度までは許しても三度目はただではすまない、好意に甘えるのもいいかげんにしろ、と強く警告することが多いといえるでしょう。また、口に出さなくても、何度も好意を踏みにじられたときの心理を表したり、逆に失礼なことを繰り返した際に相手の気持ちを推し量るのにも用いられます。日本語の「三」は区切りを示す象徴的な数で、実際に三度目で気持ちが大きく変わり、本当に怒って見捨てる結果につながりかねないことを示しています。

出典 ことわざを知る辞典ことわざを知る辞典について 情報別れ道(臨死)

 

 過去世、現世、来世これを今風に言えば「現在・過去・未~来♪」(渡辺真知子)とでもいうのだろうか。山言葉で言えば分岐もそうだが、ここの分かれ目でどちらに行こうか思案するが、それによってその後の未来(先)は大きく変わる。

 

 選んだ道によっては奈落への道となったり、バラ色の人生にも成ったりもする。でも自分自身で択んだ道のように見えてもそれはなるべくしてなる、これを宿命や運命ともいう。

 

 今日はその手のお話ではなく、人が旅立つ前のことを考えてみたい。遅かれ早かれあの世からお迎えが来るのは必定。「迷い道」に迷ったように戻り路もやり直しも効かない情け容赦ない時を誰もが迎える。直後、ご臨終、ご逝去などと評されるが直前の本人の心境、肉体はどのように砕けるのだろうか?

 苦しむのか、喘ぐのか、一言を残すのか、心はともかく、その肉体はどうなるのだろう。