Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

男の中のオトコ・土方歳三

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 当方が心酔している憧れの人物像だ。策略家でもなければ策士でもない。実直に世に向かい冷静にかつ客観的に置かれた状況を判断し、新政府軍との壮絶な二股口の戦いを経て最後は函(箱)館戦争でその最期を遂げた。その生きざまは立派というほかない。

 

 歳三はその稽古場(多摩試衛館?)に指導に来ていた近藤(局長)と出会い、仲間とともに、当時の江戸幕府徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ赴く。これが新選組副長として名を上げる始まりだ。

 

 今のタレント政治家のやり口、チャラ男にチャラ子、ふざけた世情では考えないくらい真摯に懸命に歴史を走った武勇の戦士だ。亡くなったのは享年35歳の若さだ。これほど現実に向き合い己の道を貫き戦い続けた男がいただろうか。

 

 最期を遂げた北海道の五稜郭函館山へも行ったことがある。歳三の遺体はほかの戦死者とともに五稜郭内(一本松の土饅頭)に埋葬された説があるが埋葬場所はハッキリしていない。できれば、生きながらえて子孫が今でも生きていると思いたいのだが・・。

 

 道訪した夜、函館山頂からみた津軽海峡イカ釣り舟の漁火があんなにハッキリ見えたことには驚いた。日野市の生家にも赴き、歳三が少年のころに「我、壮年武人と成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」があったことを鮮明に思い出す。

 

 この土方、実は地元山梨にもゆかりがある。鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあとに、近藤は「大久保剛」、土方歳三は「内藤隼人」と偽名を名乗り、新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名し甲斐国に向かった。しかし、甲州勝沼の戦いにて大惨敗。

 

 その後、千葉の流山で再起を図ったが、新政府軍に包囲された近藤が「大久保大和」と名を偽り投降。このとき、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも言われている。

 

 江戸、京都、甲斐、千葉、宇都宮、会津、仙台に北海道といずれも往訪したが体力と時間があれば再び歴史の跡を追いながら歩いてみたい。残念ながら今どきは後世に名を遺すような歴史的人物は全くいない。