Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

筑波天狗党

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 徳川御三家と掛けて女性の用足しと説く、その心は「ミト・・、ミト(水戸)、キシュ―う(紀州)、終わ~り(尾張)」。冒頭からつまらぬダジャレから入ったが、今日は至ってまじめなお話。

 

 1864年3月27日、水戸藩の尊攘檄派(天狗党)のうちの急進派による筑波山挙兵を機に起こった争乱のこと。 水戸の天狗という呼び名は、水戸藩徳川斉昭(なりあき)が藩政改革したとき、改革を好まない門閥(守旧)派が、改革派(天狗党)を非難したところから出ているようだ。改革派には成り上がりの軽格武士が多かったかので、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられ「筑波天狗党」に至ったと云われている。

 

 水戸藩尊王攘夷派は、常陸茨城県)、下野(栃木県)、下総(千葉県)各地の農民を率いて関東各地また中山道に転戦した。尊王攘夷を旗印に常陸国筑波山に挙兵。すると、那珂湊、小川、潮来に集結していた郷士、神官、農民ら約千人もがこれに加わった。天狗党下野国太平山、日光と移動するが、幕府はこれに追討軍を送って、これに関東諸藩も加戦、関東各地で戦闘が続いた。

 

 天狗党は水戸、那珂湊の戦いで敗れ、その一部は北上して磐城塙で全滅、聞き覚えのある主流は武田耕雲斎を長に西上、下野、上野、信濃、飛騨を経由して、越前まできて折れ加賀藩に降伏。約350人が斬罪となったが残党は敦賀まで追討を逃れた。

 

 何故、このような話を差し上げたかと申しますと、長女宅で自家用車を購入。密を避けるために家族で関東界隈をドライブに出かけているようなのだ。勿論、娘は20年近くのペーパードライバー。都下西の高尾山と並んで東は筑波山。そこに我が夫婦を連れて行ってくれるという。初心者マークをつけて、孫2人も同乗、常磐道経由でお山に向かうそうだ。有難いお話だが一緒に心中するつもりはない。お気持ちだけを戴いて今回の企画については丁寧にお断わりするつもりだ。

 

 この山(男体山と女体山)は、関東平野を眼下に望む双耳峰、高尾山と並んで数えきれないほど、「もういい」というほど登った。登山コースは裏道から獣道迄目をつむっていても登れる。御幸ヶ原まで行って、仲の茶屋でもつ煮とカレーをいただき遠周りして下山。江戸屋旅館か青木温泉ホテルで立ち寄り湯を浴びて、古民家風日本料理食事処の「筑膳」で、冷たいビールに喉を潤し、江戸切子のグラスで焼酎をロックで戴く。最後は沼田屋の「かりんとう饅頭」をお土産に、わが天狗党も家路を急ぐ。

 

 仲の茶屋の旦那さんは野良仕事の帰り交通事故で亡くなったのは数年前の話。娘の手伝いを受けて女将もお元気だろうか。今日は水戸の天狗党から筑波山絡みの話題まで随分と引っ張ったが、今となっては懐かしい思い出ばかりだ。身体が戻ったら高尾も筑波にも孫を背負って、再び登ってみたい。