Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

高尾

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 吉原一の花魁の源氏名である。出身は栃木県の貧しい家に産まれ(実名は「由香?」)、若くして、奉公(見受け)に出され最後にはその道の頂点にまで登りつめた。当時の花魁道中は華々しく家紋を持たなかった高尾は着物に真っ赤な紅葉をあしらった召し物を好んで身に着けていたらしい。

 

 ここで、高尾と紅葉が符合する。これからの季節、高尾山の紅葉も色あでやかに

染まるだろう。下山したら屋号「山口屋」の名物、とろろ蕎麦をお召し上がれ。

 

 吉原の中にも幾つかの置屋があって、その屋号の中でも「三浦屋」、「梅本屋」なんざ人気があって引き合いも多かったらしい。知り合いの中にも三浦、梅本の姓を名乗る方も多いが、よもやこの屋号が起源となっているのでは勘ぐってしまう。

 

 また、その昔甲府市内には穴切(現町名は宝)という地域があって、確か大門があってその外の取り巻き一帯は、つい最近までスナック、バーや○○宿等があって一大歓楽街を形成していた。ただ、そうした光景を知る者は随分と少なくなった。

 

 大門の最深部に「伊勢桜」という遊郭があって、そこの息子とは中学校で仲の良かった同級生でもあった。制度が消えた後も羽振りがよく、湯ばーば(婆々)みたいな怖い女家主がその後も、切り盛りをしながら仕切っていたような気がする。

 

 時に、一度、置屋の屋号とご自身の姓を比べてみるのも面白い。吉原は当初幕府公認の施設で武士や大名が利用し、その後「越後屋」、「加賀屋」、「越前屋」それに「甲州屋」等の豪商の旦那衆が大金を叩いた。さらに時代が進むと江戸庶民が利用するようになった。 

 

 ただ、当然に客単価は落ち、スポンサーも少なく、置屋も以前ほど金の巡りは良くなく、遊女らの待遇も次第に劣悪となった。それに抗議すべく遊女16名が蜂起した。

 

 そして、大門内の吉原に火を放つのである。これが有名な「吉原炎上」だ。艶恋沙汰とトラブルや事件は表裏一体。英雄色を好むではないが、かの実業家「澁澤栄一」でさえ本妻との間にできた子供以外に、外に10人もの子供をもうけていたことはあまり知られていない。