Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

「差別」「区別」「特別」(2-1)

 これを「差別ではなく区別だ!」と言って憚らない連中も多い。これに対し「特別」とは、他とはっきり区別して扱うことや上にも下にも群を抜ているさまをいう。こうした言葉を使う背景には使う側の絶対優位性と存在基盤を確立すべくもの(状況)があって、ともすると使う側の強気、強硬、強行、乱ゼキを誘発する。

 断っておくがこの徳兵衛はレイシストではない。時に、もともと階級、階層や差別は人民が欲するモノであり、民主主義といった絵空事より専制君主独裁制を人々は好んだ。つまり支配されている(た)方が大衆としては楽な生き方ができるからだ。

 〇〇様、○〇皇帝や長や領と崇め奉ってさえおけば最低の生活は維持できる。そこには難しい思想も無ければ、考えもない。僅かな隙間や空間、時間を縫いながら人々は強制化や統制下においても自由を楽しんだ(でいる)。

 

 士農工商制度で時ながら得た江戸時代もそうだ。ここで力を持ったのは商人だ。さて、天皇や将軍を君主とする政治は大戦前までは上手く行ったが、これが裏目に出たのが太平洋戦争後だ。

 

 戦後マッカーサーは、ここまで群や国民が立ち向かえたのは天皇制に起因していると判断。強固にこれ(天皇制)を排除すべく憲法誂え天皇を日本国民の象徴に置き替え、労働者(社会派)層と保守(自民派)層の対立を煽りつつ、主権を民のものにしようにした(55年体制の構築)。ここから戦後の復興が加速度的に早まり、当時他国に睨まれながらも我が国は高度経済成長を遂げた。

 

 今の世界じゅうを見ても共産主義国家が多い絶対君主(主義)制度を見てもそのことが良く分かる。つまり、自由主義の下、国民主義や平和主義をいくら唱えても、左派やリベラルは一定程度許容される、もしくは想定されるレジスタンス(抵抗勢力)であって、体制側としてもこれを具とすることで体制が維持できる。

 

 つまり民主主義を唄う国家においても共産主義的思想を唄う国家の中にあっても自由主義を唱えるグループはどちらにおいても存在する。

 

 と、今日はひなマチュリ、太桃の節子だというのに訳の分からない愚論を述べているうちに時間が来てしまったようだ・・・いつもの通り、この続きはまたアスタ。おやすみなさいグー、グー、グー、チョキ、パーと爆睡だ。