Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

あの日

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    今日は、8年前の14時46分に東北地方にマグニチュード9.0の大地震が襲った。そして死者2万人、いまだ行方不明2.5千人、特別な思いが残る日だ。去年の本日は日曜日で「守谷浩」をテーマに「守」について書いていた。一昨年はというと「週末は山梨にいます」で、故郷をテーマに土曜日にブログをアップしていた。

 

 この日の前後には、おそらく震災関連記事を書いたのだろうがあまり記憶にない。だから今日は8年前の震災を思い出している。あの壮絶な津波、福一の原発事故。車の中で遺体になった女性。自宅の二階に繋がる階段で息絶えた老人。山のノリ面に張り付いた無数のご遺体。

 

 遺体安置所では、口から鼻から孔と云う穴に詰まった遺体を洗い流す消防団やボランテイア。あの異臭、潮の匂いに重油の混ざった異様な匂いが街中に漂っている。あちらこちらでまだ焦げ臭さと死臭が残っている。

 

 湾一つ、岬ひとつ回り込むと風景は一変する。荒涼とした風景に無彩色な景色。一瞬の違いで命を亡くした者、救われた者、老若男女に怒涛の津波がすべてを呑込む。自然災害と云うものは、人間社会の弱い個所をものの見事に突いてくる。例えば、沿岸部や河口周辺は生活をするには便利な立地だが、いったん海が荒れ狂うと人間社会のすべてを呑込み多数の犠牲者を生贄として差し出さなければならない。その代償はあまりに大きい。

 

 震災後、8年たって「復興」は、一旦、区切りがつくが、復興も道半ばで遺族の無念はいまだ消えない。予期した「死」と突然訪れた「死」には、受け入れ側に相当のハンデがある。いまだ親族や知り合いの「死」が受け入れられない方々も多いことだろう。

 

 改めてご冥福とお悔やみを申し上げたい。なぜ、こんなにもこの日が記憶に残っているのかは、先日もご紹介した通り、当方、当時「災害対策本部責任者」としての任を仰せつかり、現場を指揮していたからだ。

 

 それ以上に記憶にあるのが大震災の翌日、息子が結婚式を挙げた。あれから8年。いま九州に赴任している息子家族も2人の子供に恵まれ、幸せにやっている。幸も不幸も紙一重。こうして子供たちや孫の行く末を身守れる当方も、また恵まれた環境にいる。

 

 ※掲載写真は2011年3月19日 北日本新聞から

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