Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

憂国ニッポン(ⅡのⅠ)

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 本年1月12日以来の「憂国シリーズ」です。さて、爺や婆などのご老人を相手にしてばかりでは、周りの方は幸せになれません。これを今風に言えば、こうした人々は若者たちにとって、それは「老害」そのもので、それを口にするのも憚れるようです。あと、20年もすれば日本の人口の2/3は65歳以上の老人で埋め尽くされるのですがねえ・・。

 

    こうした高齢者の多くの考え方や思考回路は、過去の教育を原点に保守的で守旧的です。つまり、過去の地位や名誉に居座り、懐古主義に身を委ね「昔は・・」や「今の若いもんは・・」を連発することしかできないのです。そして困ったことに、寿命と同じくこんなお年寄りに限って、昔にすがり、その思い出の現場に居残ったままで、一向に枯れずに逝かないのです。

 

  「枯れた味」、「いぶし銀」などという言葉は、奥行きがあって味わい深い言葉なのですが、何を勘違いなさっているのか、それを傍から見れば、執着やコダワリが強すぎて老醜、老臭が漂う鼻つまみ者にしか映りません。が、ご本人にはその自覚が全くありません。だから、こうした方々とは科学的、合理的、効率的、共感的に、かつ共調(聴)しながら、ご一緒にお仕事をすることもできないのです。

 

    戦前も戦後の思想や道徳教育もそうでしたが「三尺下がって師の影を踏まず」、「先輩は先人にして同輩に非ラズ!」と、いったような強いヒエラルキー感があります。こうした教育を受けた方たちは、なかなか目線を下げることができません。だから、現実や現場を改革することが出来ずに、同じことを繰り返しているばかりです。

 

   その典型は、教育現場に限らず、学校での部活、職場、スポーツやさまざまな競技の現場に表れています。このような人たちは、型にはめられた教育によって自らの考えや知恵もないので、「怒鳴り散らし」、「声高に居丈高に」、「ド根性論」を振りかざすことしかできません。そうした目で見ると、彼らは悲しく淋しい人間なのかもしれません。

 

    型どおりに、指導、練習、パワ、モアやアカハラの区別もつかず後輩、若者、生徒や学生を、ただ、ただ強圧的に、威圧的に「シゴク(キ)」ことしかできないのです。デス(Death)から、こうした指導者や教育者に出会ってしまった若者たちは悲劇そのものです。

 

 最近の校内、学内や職場内で良いお年をコイテ、良識も分別もあるとされる指導者や上司による学生、生徒や社員に対する体罰、暴力やセクハラ、パワハラ事件などを見るにつけても、この国の未来や将来が不安でたまりません。

 

    果たして、このような方々がご家庭ではどんな夫婦を演じ、子供にとってはどんな父親、母親像を作っているのかチョット覗いてみたい気もします。そして、ここにいる爺婆も、孫たちにとって、どんな風に映っているのか?「反省しきり」の今日此の頃でございました。