Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

狼は生きろ!豚は死ね!!

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    この一年でわが身のウエストは80㎝後半から70㎝前半に、体重は70㎏後半から60㎏切るまでに痩身となった。不幸中の幸いとでもいうのか病気が見つかってからというもの食が細り血糖値も落ちた。ただ、肋骨が薄ら浮かび上がり筋肉もスタミナもだいぶ落ちてしまった。でも腹筋やインナーマッスルが弱ったせいなのか?内臓下垂なのか?体脂肪が増加したせいなのか妙に下腹部がポッコリ出ている。

 

 一般論でいえば、年をとるに従い消費カロリーは減る一方で、食べることが楽しみ(ぜいたく)になって摂取カロリーは増え、結果として体脂肪が増加しがちだ。反面、筋肉量は逆に落ちるから、体重が不変でもその分は体脂肪が増える。体脂肪には内臓脂肪と皮下脂肪があることは分っているが、当方のポッコリお腹の元凶は、もしかしてこの内臓脂肪かも知れない。

 

 結果、病気で食が細くなった分、全体的に痩身とはなったが、インナーマッスルが弱く、内臓脂肪が増え始めたせいか、昔ほど体のクビレがない。 愚妻も内臓下垂でポッコリお腹なのだが、これについては改善方法があるという。ポッコリお腹にお悩みの方のご参考になれば・・・・。

 

 まず、①真っ直ぐ背筋を伸ばして立つ、次に②ゆっくり腹から息を吸い込み大きく腹を膨らませる。そして③ゆっくり口から息を吐きながら、みぞおちが凹むくらい腹を凹ませませる。④そのまま息を吐きながら、肛門を締め、ヘソ下10cmの丹田にも意識を向けながら、30秒間腹を凹ませ腹、尻、肛門を締めるように意識して、息を吐く。これを1日10~20セットしていると、1週間後から徐々に効果が出るらしい。

 

 余計なお世話かもしれないが、食事によるダイエットでは、腹筋の量は増えないので、悪しからず。

 

(今日のおまけ)

 日本のエリートと真逆のアメリカのエリートビジネスマンは、まず太らず煙草は吸わず、背は低からず容姿淡麗にして歯並びが良い事が共通項なのだ。男女に限らず仕事を続けていく以上、まず太ってはいけない。

 

 夏木勲主演、映画「白昼死角」のキャッチコピー「オオカミ(痩身)は生きろ!豚(肥満)は死ね」を彷彿とさせる。でも、よくよく考えればブタが死ねば、それを獲物としてきたオオカミもいずれ死ぬ。皮肉な話だ。

閉鎖・閉店・廃業・撤退

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  以前にもお伝えしたが、田舎に帰省するたびに空が広く感じる。気のせいかと思いきや無人家屋や老朽化したビルが次々取り壊され、視界が広くなっているのは気のせいではなかった。車窓から見る街並みは確実に滅び行く様を呈している。

  

 例えば、大型店舗でならしたJR前橋駅前のイトーヨーカ堂(掲載画像)の閉店後の駅前は閑散とし、これが県都かと目を疑うほどの衰退ぶり。出店当時は好立地ということもあって来店客数も売上げも伸び、出店に伴う従業員採用で雇用面でも好循環が続いた。だが、デフレの進行により、次第に売り上げは落ち込みやがて同店(民業)は当地から撤退した。やけにガラス張りの群馬県庁(官業)だけが一際その高さを誇るという皮肉な光景を作り出している。

 

 国内外ともに、流通、アパレルに限らず閉店、撤退や閉鎖が相次いでいる。トイザらス、ギャップ、マック、シダクッスやアオキも閉店ラッシュだ。そりゃそうだわな!スーツ着て仕事をする業種や職業がいくらあるか?お堅い役所や金融機関でさえ今の時代、クール・ウォームビズとかでカジュアル化が進んでいる。多様化する時代に、柔軟に身の丈を合わせられなくなった企業や組織は撤退、廃業、閉鎖、閉店に追い込まれるのも仕方あるまい。

 

 この先、いくら値段を下げても消費は伸びないと確信する。つまり景気はこの先「しばらく」どころか「一向に」良くならないのは確実。待ってもダメ!別れた女房(彼女)はいくら待っても二度と戻ってこないことを肝に銘じよ。

 

 それに、いつか所有不動産価格が上がると信じ続けている投資家。いまでもタワマンを何部屋も持ち続ける国内投資家を裏目に中国資本は早々に損切り処分し、広大な北海道の荒野に投資しているという。しかも、地勢を利用して外部侵入(覗き見)ができない場所を買い漁っているという。地方の空洞化を巧みに利用して次々と外国資本が蝕んでいる。地方ばかりかと思いきや都内の駅前には中国に限らずインド、パキスタン料理店が多いこと多いこと・・・。

 

 身内で共食いしているうちに、いつの間にか外国資本にこの国が乗っ取られるのもそう遠くはない。お人好しで能天気な日本人が地球上から消えるかも知れない。

 

(今日のおまけ)

 以前、季語のあとに「・・根岸の里の侘び住まい」と挙句を続けると俳句になることをご披露した。今の季節なら「月浮かび根岸の里の侘び住まい」となる。和歌なら挙句に「それにつけてもカネの欲しさよ」を使う。「身を案じての医者通いそれにつけてもカネの欲しさよ」。

 

 今週月曜日、ご入院と相成ったN御大は術前発熱で手術延期。発熱原因が虫垂炎扁桃腺炎であれば延期しないのだが、延期は医療ガイドラインに沿ったもの。 

 

 一時帰宅して仕切り直し、気を揉むほど体に悪いことを知りつつ、ご当人のお気持ちは痛いほどわかる。「術拒否て平井の里の侘び住まい」。

「子ほめ」(2-2)

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  金子氏は相談にこう答えている。

 

 「この話から、ほめることに慣れていない人間が、付け焼刃でほめてもうまくいかないという教訓を得られるでしょう。口が悪かったあなたが突然、お世辞ばかりを言ってもうまくいかないし、かえって信用されないでしょう。

 

    私自身を顧みても、急に自分の性格を変えることは難しいものです。悪口や毒舌を無理して急に止めようとせず、周囲に受け入れられる良い方法はないか考えてみました。  『数』で考えてみたらどうでしょう。

 

   誰かの欠点ばかり見て、悪口を言ってしまうときには、必ず一つだけ、無理にでも長所を見つけることを自分に強いるのです。一つなら比較的容易です。いつも通り悪口を九回言ったら、長所を一回ほめる。これを続けていくだけでも、あなたが挙げた長所が真実味を帯び、悪口も親しみの表現に変わるのではないでしょうか。

 

 ちょうど、黒の碁石九つの中に一つの白い碁石があると目立つのと同じ理屈です。試してみてはどうでしょう」(一部抜粋・原文のまま)

 

 いかがでしたか?自分にもそんなところがあることさえ気づければ、それこそ大きな収穫だ。もう一度2-1をじっくりと読み返してください。

 

(今日のおまけ)

   言葉の使い方を誤解していた「(問うに落ちず)語るに落ちる」を語る価値のないほどつまらない人間のレベルにまで「落ちた」を「つまらない」という意味と解釈していた。「落ちる」の言葉のイメージと韻に引っ張られていたのだ。学問のない徳兵衛これだからどこに行っても赤っ恥をかく。

 

 真の意味は、聞かれていても答えを教えないのに、自ら本音や本心を語り始める状態のことを「語るに落ちる」(=語る状態に落ちた)。つまり「問いかけても落ちないが、語らせると落ちる」という意味だそうだ。

 

 あーそうか。それでドラマや映画の警察の取り調べシーンで「落ちる(自供)」、「完オチ(完全自供)」や「半オチ(一部供述)」を使うのか。妙に納得。お勉強させていただきました  言葉の使い方とその意味、喋り方や使う場面を間違えると、時として相手に発した言葉も暴力となる。

「子ほめ」(2-1)

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 先々週の朝日新聞朝刊の相談室「悩みのるつぼ」に20代の女性から同性異性を問わず人をすぐに見下す癖が治らないとの相談があった。それに経済学者の金子勝が、落語の「子ほめ」を引用して珍しくまともな回答をしていた。当方にも通じるところがあったので、ご紹介したい。

 

 この古典落語、故柳家小さん師匠に噺をさせれば、絶妙な語り口で人の心を動かす。まずご存じない方にあらすじを差し上げたい。

 

    あらすじ:隠居の家へ松ちゃんが、「ただの酒を飲ませてくれと」やって来た。芳さんから「灘の酒」と聞き間違っているのだ。  隠居はただで酒を飲ませてもらうには、お世辞、べんちゃらの一つも言わないとあかんという。それでもだめなら、奥の手を出せばいいという。相手の歳を聞いて、それより若く見えると言うのだ。45歳なら、「どう見ても厄(42)そこそこ」、「50なら47.8」・・・・「100なら95.6」とこんな調子だ。

 

 それが子どもの場合には反対に歳を余計に、「10歳ですか? しっかりしたはりますなぁ、どお見ても12、3歳には見えます」と言わなあかん。 赤子の誉め方は、「さて、これがあんさんのお子さんでございますか。どおりで目元から鼻筋にかけてはお父さん、口元から あごのあたりにかけてはお母さんそっくり、額の広い所なんかは亡くなったお爺さんに似て長命の相がございます。

 

  『栴檀は双葉より芳し』、『蛇は寸にしてその武威を顕わす』、私もこういうお子さんに、あぁ~、あやかりたいあやかりたい」 とこんな具合だと教わり、松ちゃんは早速、人体実験すべく隠居の家を飛び出す。

 

 すぐに見知らぬ人に声を掛け失敗、次に伊勢屋の番頭にばったりと出くわし声を掛けると、番頭から「よぉ、町内の色男」と機先を制される。隠居から教わったお世辞とべんちゃらで攻めるが失敗し、奥の手の歳を聞く。番頭の「今年40だ」の想定外の歳に困った松ちゃん、無理に番頭に「45だ」と言わせて、「どう見ても厄そこそこ」と言って、番頭は怒って行ってしまいただ酒どころではない。大人はあかんこうなら子どもだ、竹やんの所に生まれた赤子を誉めに行くことにする。

 

 竹やんは早速赤子を見に来てくれたのには嬉しいが、なにせ松ちゃんのこと不安でもあるが奥へ通す。案の定、松ちゃんは昼寝をしているお爺さんを赤ん坊と間違え、「随分と大きい、産まれたてのくせに頭がはげて歯が抜けて皺だらけだ・・・・」なんて言っている。赤ん坊のそばに座った松ちゃん、「猿みたいやなぁ、赤い顔して、これ茹でたんか」ときた。

 

  「可愛らしぃ 手やなぁ、もみじみたいやなぁ」で始めてまともなことを言い竹やんも嬉しがる。すると、「こんな可愛らしぃ手して、近所から祝い取りよった」で台無しだ。   竹やんの「うまいこと褒めてくれ。一杯でも二杯でも飲ませるから」に、松ちゃんは仕込みの誉め言葉を並べ始めたが、「さて、・・・・額の広いところなんかは亡くなったお爺さんそっくり・・・・」とすぐに脱線だ。

 

でも松ちゃんの「お人形さんみたいやなぁ」の一言に、

 

 竹やん「もぉ 何にも言ぃな、”人形さんみたい”か、嬉しいこと言うてくれた」と喜ぶが、

 

 松ちゃん「何や知らんけど、お腹押さえたら”キュッキュッ”いうてるで」でぶち壊しだ。こうなれば最後の奥の手を出すしかない。

 

 松ちゃん 「あんさん、お歳はおいくつで」

 

  竹やん 「幾つも何も、今朝産まれたとこやがな」

 

  松ちゃん 「今朝産まれたとこ? とはお若こう見える」

 

  竹やん 「アホなこと言ぅな、産まれたてより若かったらどやっちゅうね  ん?」

 

  松ちゃん 「どぉ見ても、まだ産まれてないみたいや」

 

                   (「子ほめ」2-2)に続く。

 

       ※紙幅がないので(今日のおまけ)は休ませていただきます。

千の風に乗って

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   11月1日(2日早朝)の深夜、BSプレミアムで「千の風になって」の曲をバックに女優の木村多江がご案内役(彼女もお父さんの死が受け入れられず、お父さんの反対を押し切って女優になった経験を持つ)。愛する人や身近な人の死をどう受け止めてきたのかを国内外を旅しながら悲しみと癒しの在り方を伝える内容だ。でも、それを裏返せば、人はどうすれば生きられるのか、生きていけるのかをテーマにしているようにも思えた。

 

 なぜかしらこの番組を見ながら胸が詰まってしまった。番組内でも採りあげられたこの曲は、シンガー・ソングライター新井満が、知人の死をきっかけに「千の風になって」の英語原詩で作者不詳の「A Thousand Winds」に感銘を受け、氏は死者を送る側からではなく、亡くなった人からのメッセージとして死生観を根底から覆したこの詩に感動したという。

 

 原詩の意味は、「死ぬということは風に生まれ変わること、星に生まれ変わること、遠くに行ったわけでもなくて、再生してあなたのすぐ近くにいる」ことを示唆している。つまり、大切な人が、死んでもなお自分のすぐ傍にいてくれることを悟った瞬間に、それまでの深い喪失の悲しみから解放され、安堵し自らの心が癒やされるのだという  テロ、事件や事故で思いがけなくこの世を去らねばならなくなった人々の心は、形を変えて脈々と生き残る。残された人の心一つで穏やかな気持ちになれる。

 

 結びに、親父は晩年仏教に目覚め、觀自在菩薩行深般若波羅蜜多から始まる「般若心経」を研究し、毎朝、仏壇に向かって唱えていた。その後ろ姿をみて門前の小僧ならぬこの徳兵衛、唱えることはできるが、お経の本来の意味や悟りの境地に入ったことはない。であるなら、そうだ今からカラオケにいって、「千の風」を独りで唄ってみようっと。この番組を見たから、歌詞のだいたいの意味やイメージは分った。きっと高得点が出るに違いない。

 

(今日のおまけ1)

      自然葬を区分すると 埋葬(墓・土葬)にはじまり、 散骨(宇宙葬・海洋葬)、 火(火葬場・直葬)、 水葬、 鳥葬、 樹木葬風葬、珍しいところでは冷凍葬があるらしい。幼いころ、祖母の土葬に付き合わされたことがある。組の輪番制で当番の何人かが野犬に掘り起こされないように2メートル近く墓穴を掘る。「曾爺さん、曾婆さん」や先祖の骨が沢山出てくる。基本は十字に埋めるが、その臭いはかなりキツイ。

 

    薪による火葬(荼毘)にも立ち会ったが、とにかく骨になるまでの時間がかかり、骨が大きすぎて骨壺に入らない。そんな骨が火葬場の裏山に山のように積まれていたことも思い出す。延々と立ち上る火葬の煙。親戚の長老が幼い当方に、「亡くなった婆さんの魂が天に召されていく」と教えてくれた。   終活も終盤に入ると、とにかく話題が暗い。今日はここら辺で床に入りながら丹波哲郎の「大霊界」でも読もうっ〜と。

 

(今日のおまけ2)

 件(くだん)のN御大。いよいよ今日入院だ。明日以降、内視鏡による病理学的に患部を掻爬する。仄聞した最新の様子では、仕事に忙しく週末も家には帰っていないようだ。折しも、昨日から発熱したらしい。原因が患部の炎症でなければよいが・・・手術の無事を祈りたい。時を併せて当方も発熱して、昨日は寝込んんでしまった。一昨日、体力づくりのためにと無理を承知で自宅周辺を20㎞もウオーキングしたことが原因のようだ。「過ぎたるは及ばざるが如し」