若い時は、ポジテイブ、前向き、何でもやってやろうと、遊びにも仕事にと、いろんなことに手を出した。こうしたことをやり続けると虚勢や見栄や繕いも自然と多くなり、本来の自分の進むべき姿から、どんどん駆け離れていく。
したがって、いろいろなお仕事、道具、お付き合いや交際を通じて、気づかぬ間に鎧具を重ね着し、要領、ヨイショやベンチャラなどなど、処世術だけしか身に憑かず自分を見失っていたことに改めて気づかされる。
この歳になっても相変わらずだが、何処にでも手や顔を出し、お相手のご機嫌を伺いながら生きてきた。それは、常に「足し算」の人生を意識しながら、「生きる術」を求めてきただけに過ぎないということだ。
それでも、悪いことばかりでもなく、その分他人の生きざまを見てきた。そのせいか、最近は「引き算」の人生を意識するようになってきた。虚礼、人づきあいや相手の気持ちを慮るばかりに、今日の候まで本来の自分自身の姿が分からず闇雲に突っ走ってきたことにも気づかされる。
つまり、ここまでは「世間体」、「穏やかな家庭」や「出世」といったようなソコソコの「無難な平和」やカタチにばかりの「いいカッコC」だけを意識してきたようだ。人生に対する冒険や挑戦など口先だけで誤魔化すこれまでの生き方に、自分自身でも飽きも来て草臥れてきたらしい。
それが、こんな貧弱な当方でも時や歳を経て、いろいろな経験を積んでくると、本来のあるべき「裸の自分」が何となく見えてくる。そしてこれから先、自分が何を目指し、過去を振り返って本当にやりたかったことは何だったのかも薄っすら見えてくる。
若い時に才能が開花する人は、そうしたことをいち早く気づくのだろう。当方は時すでに遅くもこのことだけが分かっただけでも有難い。これから先、名声、虚勢、虚栄、見映えや見栄など一斉を捨てて、「引き算」の人生を大いに味わっていきたい。
その昔まで、男とは、仕事を立派にやり遂げ、家庭や家族を守ることだけだと思っていたが、どうやらそれも大きな勘違いだったようだ。それ以上に男の価値とは、たとえ独りになっても信念を通し、泰然自若に生きて行けるかどうかが「本懐」なのかもしれない。周囲や家族に見放されて、殆どを喪失しても独りになっても、なお自身を曲げずに周囲に同調せず生きていけることこそが「男子たるものだ!」ということだ。
男友達、兄弟や父がすべからく、この世はそんな強いオス(男)ばかりだとは思っていない。そんなご同輩よろしく、当方も「ご寿命」ばかりを気にする弱き男かも知れない。
今日はヤケに謙虚で素直のように読めるが、一歩間違えれば「偏屈な頑固ジジイのボヤキ」としか映らない!
「オイ!なんかあったのか?徳兵衛さんヨ!」、「何んかヘンだ!」