Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

老いの証

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 よく記者会見やインタビュー等で、ご当人にこんな質問が良くされる。「○○さん、この件は事実なんですか?」「本当はどうなんですか?」てなことが投げかけられる。するとご当人は、決まり文句のように「記憶にございません」とか「忘れました」と逃げ口上を打つ。ここまでだと、まだ老いの症状は出ていない。極めて健常で正常な受け答えである。

 

 ところが、老いが進んでくると、応え方が違ってくる。「判らないです」「~かもしれない」と自意識がない発言が多くなる。この間も、ちょっと深酒をして家に帰ったら、玄関に血が垂れている。女房に「どうしたの?血だらけよ!」と言われても痛くもないし、どこでどうしてそうなったのか全く分からないのである。見てみりゃ右手の小指がざっくり抉れていた。

 

 手当はしてもらったものの、翌日になってやっと痛みが出てきた。お酒を飲まなくてもこうした肉体的な痛みや、出血に気が付かないようになったら、もう相当に神経がやられてるかも知れない。

 もう9月と言っても、暑さはまだ厳しい。先日我が家に来訪した娘は、額から玉のような汗が流れてるというのに、爺と婆は一向に汗をかかない。皮膚感覚がマヒしているのである。汗もかかないうえにズクもなくなったら、いよいよ老いの弊害も深刻だ。それに昔のことは鮮明に憶えてえているのに昨日のことが良く思い出せない。みなさん、そんなことありませんか?

 

(今日のおまけ)

 巨人の沢村投手。1日に1軍登録復帰したと思いきや4日には登録抹消。一時は精神的な要因(イップス)かと騒がれたが、良く調べたらトレーナーの針治療が原因だった。針治療によって、利き腕の肩に神経麻痺が後遺症として残ってしまった。球団は全面的に沢村投手の面倒をみると宣言した。

 

 当方の主治医は、手術した際に顔面麻痺は残ると説明した。そりゃ、針治療でもそうなるのだから、メスをいれりゃ当然そうなるわな。別の神経内科のドクターはこう説明してくれた。「メスで、仮に1ミリ神経を切ってしまったら、毎年神経は0.1ミリしか伸びないので、1ミリの神経が快復するには10年かかる」という。「えっ!!」最後に「つまり、若い人なら兎も角、徳兵衛さん、生きているうちに神経はつながらず一生麻痺は残りますよ」だって。

 

 さて、どうしたもんじゃのう?

オヤジの生態学

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   だいたい親父というものは、子供、妻や部下の存在を認めたがらない。つまり、常に自らが優越的なポジションに立っていなければ気がすまない癖がある。部下の仕事をチェックしたときには必ず「チッ」と舌打ち。そのくせ女性社員には気を遣って毎週決まって洋菓子などを差し入れたり、気分が乗ると平気で若手の女性社員をランチにも誘う。

 

   会話は下手で、会社でも家族と話す時も必ず否定的な言葉から入ってくるのは自分以外の他人存在を認めたがらない。つまり、基本的には家庭でも会社でもコミュニケーションが不得手だから、クドクドと説教するようにしか会話ができない。時として、会話をせず黙々と仕事や趣味に没頭するのはその反動で、その姿のカッコ良さを売りにして、自分の存在を認めさせるナルシストオヤジもいる。

 

   いつも、喋りの内容は一辺倒で、ダジャレの連発か意味不明の言葉でブツブツとカニの泡吹きタイプもいれば下ネタ大好きオヤジもいる。これらも典型的な中年オヤジだ。周囲に余裕があればいいが、忙しいときに延々意味不明のことをブツブツ言われたり、ダジャレや下ネタを延々とされた日には対応のしようがない。こうした時は、「はいはい」といって適当に流しておけばいい。

 

   ところがこれが進化してくると、パソコンに向かって一人ダジャレを言うようになる。こうなると限りなく不気味で、ついには壁に向かってブツブツ喋り出す。こうなったらこれはもう明らかにうつ病を疑った方がいい。

 

    ここで、オヤジ度チェック。「おれに貸せ!」「何!やってんだよ!」「ありえねえぇ!」「有馬徹とノーチェック!馬鹿な!」「できないないないナイチンゲール!」、「当たり前田のクラッカー」「おぬしできるな!」などこのうち1つでも口にした経験のある方は典型的なオヤジですぞ。

 

  (今日のおまけ)

 洒落には、①派手なみなり、②気が利いていること、③即興で滑稽な文句といった意味がある。でも、こんなダジャレはいただけない。「いいヅラ買ったこと、言いづらかった」「傷んだ廊下にいたんだろうか?」や「弱い菅、野田では世はいかんのだ。」とか「新弟子埋葬したら死んでしまいそう」「佐賀市に有るか無いか?捜しに歩かないか?」では、世間受けもせず、オヤジ度は益々深刻な状態に。

   ご興味のある方は「ダジャレ・ステーション」まで。

過ぎたるは及ばざるが如し

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 ジョギングは、ひとりでもいつでも出来るスポーツとして親しまれている。だが、ランニング体に悪いとの話が最近目立ってきた。ジョギングの定義は「ゆったり走る事」。 時速10km程度でゆったりと走る事を指しており、身体に無理なく、適度に負荷をかける事で、新陳代謝を高め、心臓が強化され、心拍1回で流せる血液の量を増やす事が出来、その結果、寿命が伸びるとされている。

 

 それなのに、ジョギングは身体に悪いという認識が高まっているのには理由があった。実は体に悪いのはランニングであって、ジョギングなら健康被害はない。つまり走るときはジョギングより早く走ってはいけないということだ。

 

 何故、ランニングが身体に悪いのか?その理由は、①スピードを上げる事で、身体と心臓に強い負担をかける。②心臓に負担をかけ続ける事で、心筋梗塞のリスクが高まる。③長時間・定期的に行う事で、疲労が蓄積され、突然の体調不良を引き起こしやすくなる等が挙げられる。つまり、無理してる感、追いつめてる感満載なランニングを長く続けていると身体に悪いのだ。 

 

 無理してるかどうかの公式は、「日数×走るスピード×走った時間」ランニングの目安として、走るスピードが 時速12km以上で 1週間で合計30~40kmほど走ると健康維持に障害がでてくるボーダーライン。

 

 1週間の内、走る日と距離を予め決めてから、走る時間と走るスピードを逆算すれば、ボーダーラインを超えない適度なランニングが出来る様になるはずだ。単純に、週に3日合計30km走ると決めたら、1日時速10kmで1時間走るということになる。キロ6分で1時間が目安だ。

 

 もっと怖いのがランナーズ・ハイだ。長時間身体に負荷をかける事で、脳内麻薬と言われている エンドルフィンが分泌される現象「ランナーズハイ」が起きやすくなる。ランナーズハイになると、例え疲労が限界に近づいていても、まったく疲れを感じづらくなり、むしろ恍惚感に満たされる。

 

 また、ある研究では、一定の年齢(40歳以降ぐらい)を過ぎてから、前述の様なランニングをしていると身体に悪影響をおよぼす可能性が大きいという。

 

 過ぎたるは及ばざるが如し、ランニングに限らず、チームで争う駅伝やリレーマラソン。結果や成績を競うのは一向に構わないが、究極は自分の健康維持のためのやるもの、他人の健康維持のためのものではない。個人差があるにしても健康のために運動は適度にしておいた方が良さそうだ。

 

 (今日のおまけ)は、都合によりお休みさせていただきます。

益にも害にもならない

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  一般に、こういう人々は、毒にも薬にもならない人とか屁にもならない奴という。つまり、害にはならないが、かといって役に立つわけでもない、あってもなくてもどうでもいいもの。邪魔にはならないが、居ても居なくても何の影響もない人々の例え。

 

    厄介な人は、どこに属していても必ず存在する。当方も誰かにとっては疎まし存在になることもあるだろう。人の価値はやはり何年生きたかの年ではないと痛感する。

 

 先輩、上司や年上であっても柔軟さに欠ける人が大勢いる。反面、小さな子供や若い世代から学ぶことも多い。だから、普段から自省し馬の糞のように年は取っても謙虚さや誠実さは欠いてはいけないと思う。

 

 でも、そんな風に様々な人を鏡に、自身の反省点を見つけ改善できるか?多くの人は、年齢を重ねるほどに考え方が凝り固まる。記憶というものは時間がたつと美化される。そしていつの間にか苦労話や武勇伝だけが記憶に残る。それだけならいいのだがそれをひけらかし、その上、よせばいいのに若手や後進の活躍を邪魔したがる。こうなるとこれはもう「老害」そのものだ。黙って手も口も出さず、カネも出さないそれが「華麗なる老い」の姿だ。

 

 何かにつけて「反対、反対」は今の民進党を見ればお分かりだろう。批判やオブジェクションは対案や代替策があって初めてその価値がある。なければ「黙ってろ!」だ。「ハイ」「仰せの通り」のイエスマンも対局だが同類だ。自身の考えがなく具体策も主張できなければ、これも「黙ってろ!」だ。

 

 黙ってりゃ「あの人のことだから何か考えているのに違いない。」と相手が勝手に思ってくれる。昔、学校の先生に「キジも鳴かずば撃たれまい」ではないがある程度の実績を見せつけて寡黙を通せば、「お主できるな!」と相手が勝手に思い込んでくれる。と教えられた。でも、それには、潜在的に咄嗟に動ける行動力や瞬時の判断力を持っておく必要がある。それがなければただの案山子だ。

 

 妙な失言を繰り返せば「馬脚を現し語るに落ちる」。つまり経験や知識を蓄えつつ周囲には「喰えねえ奴」と思わせておく方が、イザ鎌倉!!という時にその発言力や行動力が高く評価される。意外にも「益にも害にもならない」人がそんな力を持っているのかも知れない。

 

(今日のおまけ)

 「やらない後悔よりやった後悔」、つまり、「やらないよりやった方がまし」ということ。多くの人間は過去を引きずる。後々まで「あれやっておけばもしかしたら成功してたかもなぁ」と思うのは当然。「やらない」とは、結果が出ないことで延々と重苦しい気持ちを引きずる。

 

    ならば、いっそ「やってみて」その結果の成否に限らず、結果(術後)を受容することが大切。先日の主治医の言葉に、手術を受けようと気持ちは大きく振れた。

信じる者は救われる

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   このところ天気予報でやたらと「50年に一度の大雨」という言葉をよく耳にする。ほんとかよと思いきや「これまでにない未曾有の大雨」とか、センセーショナルフレーズが連発される。天変地異はいつどこで起きてもおかしくないのだが、言葉に踊らされているようで仕方がない。 

 

    昔は「50年に一度の大雨」などという表現はなかった。かれこれ、5、6年前、気象庁が特別警報を発令してから、このフレーズが多用されるようになった。流石に「100年に一度」や「今世紀最大の」とはいわない。それにしてもこの1年で「50年に一度の大雨」を何回も聞かされた。

  

    限定的に「その地域では」という意味だそうだが、観測地点や基準地を増やせばいくらでも「50年に一度の大雨」を作ることができる。これに輪をかけて各メディア等が便乗。刺激のある言葉でニュースを読むアナウンサー、不安だけを煽ったら、情報が錯綜して避難行動が取れず多くの被害を出す結果にもなりかねない。

  

    もっとも、地球温暖化の影響で、短時間豪雨が、年々少しずつ増えているという現実は分る。でも、こうも「〜年に一度」を連発されて災害が減るなら兎も角、それによって被害が減少しているようには思えない。

 

    予測や予報の精度がいくら上がっても自然の前では人間は無力であることを肝に銘じてもらいたいものだ。虚言妄言までとは言わないが、こうも演出に手が込んでくると報道そのものに不信感が募る。マスコミ報道に頼らず一人ひとりが災害や被害をイメージする力を持たなければ自らの命は救えない。

 

     先日、舛添前都知事がカップラーメン片手に、家庭菜園で作った無農薬野菜を添えて質素に食事を摂っている映像がテレビで流れた。TV局か本人のご希望かはわからないが、これも明らかに貧困生活を前面にした演出過多。カップラーメンより袋入り即席麺、自家製無農薬野菜よりスーパーの店頭野菜の方がはるかにコストはかからない筈。前妻の片山さつきといい、ご当人といい、会社の広報といい、談話といい、すべてが芝居掛ったこのご時世。嘆くのはこの徳兵衛だけか?

 

(今日のおまけ)

  ある調査によると、現在の新聞、TVなどの報道の信憑性について、偏向があって「信じない」とする世代は20代、30代で70%を超える。40代から70代にかけて「信じる」とする割合が増えていくが。性差があって男性の方が女性のそれを上回る。それでも50%の男女は、各社の報道を「全面的に信じない」との結果が公表されている。

 

   その調査の中で。「マスコミ報道を信じやすい男性」のタイプは、ゴシップ好きで不倫願望が強い中高年だそうだ。さて、世の殿方のみなさん最近のマスコミ報道やニュースを全面的に「信じます」それとも「信じません」。