Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

え〜、あ〜症候群

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 こうした耳障りの話し方や説明をする人がいる。こうした話し方をする人は老若に限らず地位にも学歴にも影響されにくく圧倒的に男性に多い。これは治療困難な「話し方の病」。話の切れ目やセンテンスの区切りに「え〜、あ〜」などの不要な間投詞を無意識に差し込んでしまう疾患だ。

 

 このように母音を引きずる著名人としては、その昔の「菅直人」。絶体にそうした喋りをしないのが「池上彰」と「林修」。説明や話の内容に自信があっても、緊張感やあがりと違って、間投詞は感嘆詞に近い響きをもっているものだから聴いている方も聴きづらい。これは話し手の心の動きに起因している。すなわち静寂や無言の間を妙に恐れていることに他ならない。

 

 原因としては①早く重圧から逃れ終わらせたい場合や、②無難にスムーズに終わらせたい時、③いい言葉や忘れている言葉を思い出そうとするが浮かばないケース、④心が安定しないまま記憶が飛んでしまう状況の中で、頭の整理が追いつけない時に発症する。

 

 例えば、新郎の父親が親族代表で登壇して挨拶する場合、総会や説明会で議案説明やプレゼンテーションをする場合、そして極めつけは女房に浮気や隠し事がばれて詰問された時に言葉がつまるような場合に、「え〜、あ〜、その〜」を連発してしまう。

 

 徳兵衛もそうだが、自己流で考えた治し方がある。一つ目は、話のポイントを説明する前に何点か上げて聞き手に伝えてしまう。二つ目はゆっくり目に話す。次の句が出てくるまで「ここがポイントです」や「ここが重要な箇所になります」などといって時間を稼ぐ。三つ目は、それでも駄目なら「カンペ」を用意して読み上げるが、絶体に冗長なカンペは用意しないこと。自分でもどこを読んでいるのか判らなくなり「え〜、あ〜、その〜」を繰り返すことになりかねないのでご注意あれ。

 

(今日のおまけ)

 毎朝、仏壇と神棚に手を合わせ、線香、ローソクに火を灯し、お神酒を掲げることが毎日の習慣になっている。酒や水は失火の原因とはならないが、線香や蝋燭は失火の原因となるため夫婦が呆ける前に我が家では、以前から電池式のものを利用している。そんなある日、妙なことが起きることに気がついた。仏壇奥の父母の位牌が何度後ろに下げても前へ少しづつ動いてくる。特に母の位牌はかなり前に出て来る。ビー玉を使って仏壇内、畳や床の傾斜を測ってみても、全く異常はない。

 

 父母ともこの世に未練があって、成仏できずに今生に戻ろうとしているのか?それとも「前進、前進また前進」と、あの世から徳兵衛の家族にエールを送っているのか。いまだかってその原因は判然としない。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・・・・」

 

バイプレイヤー

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 親方様を支える軍師や社長をサポートし黒子に徹する副社長や専務などを脇役という。出張らず、大将より前に出ず、周囲の理解や時に敵将とも直談判できる器量や力量を持つ者の代名詞でもある。政治の世界でいえば、誰あろう、安部首相を影で支える菅義偉内閣官房長官である。菅氏は、豪雪の秋田から単身上京して政治家を志した苦労人でもある。だからこそ「影の総理」と称されている。民主党時代の菅直人とは雲泥の差だ。

 

 この影の権力者によって国や組織の盛衰が一挙に決まってしまう。№2の出来如何によって闘いを凌げないかもしれない。戦国時代でいえば、徳川家康に仕えた本田正信のような重鎮や参謀の存在がなければ、開府以来265年にも及ぶ江戸時代は訪れなかっただろう。家康の格言とされた一節も正信の言葉とされている。「百姓共をば、死なぬように生きぬようにと合点いたし収納申し付くるよう」とは、「生かさず殺さず」の意味ではなく、「百姓たちが死なないように生きないように(彼らが食べる分と営農費と翌年の種もみを残して、残りは年貢ですべて採り上げる)という意味を百姓によく理解させて年貢を納めさせるよう」と、このことを百姓とお上が相互理解したうえで、ことを進めるようにとの意味である。さもなくば身近の妻子が憂き目に会うということを示唆した名言でもある。

 

 このように、軍師、参謀、専務、副知事等がしっかりとした先見性と洞察力をもっていなければ、たちまち組織は崩壊する。典型的な例が阪神のピッチャー江本が言い放った「ベンチがアホやから野球がでけへん」の一言で、一瞬にしてチーム(現場)が崩壊した。当時のトップは岡崎球団社長で、現場監督でもあった迷脇役は中西(太)監督だった。

 

(今日のおまけ)

 野球もサッカーもスポーツといえども一種の興行・エンターテイメントだ。昔の大相撲やプロレスとは違い真剣勝負である。その真剣勝負がドラマや芝居仕立のように進むとファンやサポーターはこの上なく満悦する。先日のWBCの侍ジャパンとオランダの総力戦こそ、最近になく見ごたえのあったメークドラマ。時間が経つのも忘れて深夜12時過ぎまでテレビに見入ってしまった。今にして思えば、日本が脇役だったのかオランダが脇役だったのかは判らないが、どちらにしてもどちらかが名脇役には違いない。その脇役が今年のWBCに優勝でもしたら、この上ない興奮が味わえる。

 

 それにしても、3月11日(土)のJ1サッカー、ヴァンフォーレVSレッズ(埼玉スタジアム)、1-4で甲府の完敗した三文試合。後半の戦いぶりもそうだが、この点差では徳兵衛地元の甲府は主役浦和の脇役にすらなれない。見事な完敗に乾杯!!唖然、茫然とした爽やかな一戦だったと皮肉りたい。J1仙台に在籍していたレッズの武藤が東日本大震災から丁度6年目のこの日にゴールを決めたのも何か特別な想いがあったのに違いない。

その昔は

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  「昔・な・が・ら」の文化や伝統を維持すること。「昔ながらのソース焼きそば」や「昔ながらのナポリタン」といった使い方をする。徳兵衛幼少の頃は、冷蔵庫もなく、食器棚もなかったものだから、ごはんやおかずにはハエがたからぬようにハエ帳を掛けていた。勿論、水道もなく水は専ら隣近所の井戸水を汲みに行くのが、徳兵衛の日課だった。そのせいもあって、今でも胃の中には「ピロリ菌」が五万といる。

 

 さて、親子丼かたまご丼に乗せたキザミのりが原因で給食センター経由で児童がノロウィルスに集団感染した。出元は、個人営業の高齢主人が素手で海苔を掴んで機械で刻んだことによる。ノロウィルスは熱には滅法弱いが、常温だとウィルス1、2個でも経口すれば、体内で爆発的に異常繁殖することが判っている。インフルエンザもそうだが、マスクはすっぴん隠しには役立っても予防には無力で。何しろ入念な手洗いとうがいが予防には一番効くらしい。

 

   では、その昔の江戸時代はどうだったのか?当時、食べ物に関しては「あぶない物は食べない」という意識が徹底していた。江戸では、「生魚」は棒手振り(移動販売)の魚屋が売っていたが、販売範囲は限られていて、鮮度が保証できる魚市場に近い地域しか回らなかったそうだ。

 

   町中の魚屋では「干物」や「塩蔵品」が主な商品。江戸後期には「握り寿司」が生まれるが、ネタには、醤油漬け、酢締め、濃い味付けで煮るなどの処理が施され、生の物は全くなかった。また、江戸では火事が怖かったので、ご飯は一日分を朝にまとめて炊き、「白米」を食べていた。玄米や雑穀は腐りやすく腹痛や下痢の原因だったらしい。

 

  その食あたりも、尾張藩の記録には切腹で死ぬのが嫌で、トコロテンなど冷たい物をドカ食いして自殺した侍(死因は食あたり)もいたとある。衛生意識に関しては、今の感覚とは違う部分があるが、江戸城下では水道網が発達していたが、意外とその実情はその水を沸かして飲んでいたとも書いてある。

 

  ヒトの糞尿は田畑の肥料として回収され、調布や隅田川沿いの桜の木の肥料にした。したがって、今名所の桜並木もその昔は、「し尿処理施設」だったということになる。ただし、当時「細菌」という概念が無かったので、長屋の共同便所はしばしば井戸のそばに作られ、それが原因で「コレラ」や「赤痢」など伝染病に苦しめられたようだ。今や徳兵衛もそのためか、生まれながらにして頭に「ピカロ菌」、胃には「ピロリ菌」それでもって人生は「ピエロ菌」が棲みき、ついには「出禁」と「出菌(金)」が続き年々、行動範囲は狭くなり生活も苦しくなるばかりだ。

 

(今日のおまけ)

 小学生の頃は、サナダムシや回虫がヒトの体内に卵を産み付け悪さをすることもあって、虫下し(薬)を飲まされたこともよくあった。世界がまっ黄色となって難儀したこともあった。ただ、その分、免疫力が強いといった利点もあった。当時から比べると細菌も病気も増えたが、おにぎりや鮨を笹で包んだり、生姜を毒消しに使ったり、雪の下を膏薬に使ったりと、そうした昔ながらの民間療法が、案外、現代人の知識を駆使した「衛生管理」や「予防医療」に替わるかも知れない。

やめてよ

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 今日は、ちょっと趣を変えてお届けする。これは東京ガスのCM(コマーシャル・メセージ)だ。因みに、新聞や雑誌に記事として採り上げられ、企業イメージアップを狙う広報をパブリシテイといいます。

 

 ふと目にした一本のコマーシャル。とにかく、なんとなく、その日常、意味や感情が分かりすぎて、涙腺が崩壊する。豊洲問題でケチをつけた同社だが、同社の一連のヒューマンタッチのCMは、一定の狙いがあって、必ず同社が扱う商品やサービスがメッセージとして埋め込まれている。それは分かって視聴者側も見ているのだが。嫁ぐ娘にお父さんがチャーハンを作ってあげるシリーズがあったのもそうだ。

 

 つまらないバラエテイ番組や恋愛ドラマをみるよりはるかに心に響く。

 ひとまず、この動画をご覧ください「やめてよ!」。

  

(今日のおまけ)

  どこにでもいるような学生や会社員である人たちがコスプレするのは、日々の自分からの解放。人は日々の生活のなかで、大なり小なりいろいろな役を演技しています。会社員、母親、娘、彼女……。その役割を切り替える役割が、部屋着や外出着など、日々の装いだったりもする。それは、日常の自分の担っている役割を重荷に感じていて、そこから解放されたいという心理。アニメキャラ、俳優や歌手と同じ格好や衣装を好んでするのは、俳優や歌手などその対象者の外装ではなく、心との同質化や同化だ。そういわれればわからなくもないが。。。。

 

 つまり、着るもの、ヘアースタイルや化粧の仕方で気分が変化したり、憧れのその人になりきれたりもするというわけだ。

 いつも同じ格好で、いつもの化粧では、男も女も三文役者の現実からなかなか抜け出せない。いよいよ季節も春めいてきた。そこのだらしのないお父さんとお母さん、いつもの服を着がえて、さあ、ご一緒に外出いたしませう。

 

 この間のテーマ「三悪」の掲載文に埋め込ませていただいた「人生の落とし穴」診断。ネタ元はどこ?とのお問い合わせがありました。ネタ元は「コチラ」です。

 

真緒帰る

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 とうとう、孫のマオマオが埼玉に帰ってしまった。これからパパ、ママとの三人の生活が始まる。これまでの母親がかりの生活と違い、おそらく難儀するだろう。また、夫婦間のイザコザも絶えないだろう。でも、早く親子三人の生活に慣れてリズム感のある日常を過ごしてもらいたいものだ。ただ、ただ、無邪気に素直に健やかに育って欲しい事を願うばかりだ。

 

 買いこんだベビー・ベットを解体し、身の回り品、紙オムツ、哺乳瓶、玩具やゆりかごチェアー等を車に目一杯積み込んで慎重にママ真緒を送る。婆々、しばし滞在して娘宅の大掃除をするようだ。パパの日頃の粗雑なお掃除がお気に召さないようだ。これまで楽しませてもらったのは爺々と婆々で、これから先は元通りの会話のない二人ぼっちの生活が戻って来る。そういう意味では、この4か月間、貴重で大切な思い出を残してもらった。思い出は、後から懐かしくもぬくもりを残す。だからこそ、大切にしたい。

 

 ただ、ただ感謝!!次に会えるのはいつか?その日が待ち遠しい。「里帰り」の背景に娘が夫婦喧嘩で出戻るのであれば、我が家の敷居は絶対に跨がせないつもりだ。娘と孫がお休みで我が家に帰って来るならいつでも受け入れる。それほど子育ては真剣勝負で、やり直しがきかない。犬は飼っていないので頭を噛まれることはないが、出来上がってしまった子供は、親は親として受容せざるを得ないのである。娘夫婦にとっては、これからが真剣勝負の「子育て」になる。

 

 要らないもの、無ければ欲しいもの、余白と同じで人は欲張りで身勝手だ。「居れば楽しき孫の顔、居なくて淋しき孫の声」(徳兵衛「心の歌」)

 

(今日のおまけ)

 尊敬語は文字通り相手を尊敬する言葉使い。謙譲語は相手を高めるために敢えて自分を低く置く絶妙な表現手法。一つひとつ検証してみよう。「会う」(尊敬語ならお会いする:謙譲語ならお目にかかる)、「言う」(おっしゃる:申し上げる)、「行く」(いらっしゃる:伺う)、「聞く」(お聞きする:拝聴する)、「来る」(お越になる:参る)、「知る」(ご存知:存じ上げる)、「する」(なさる:いたす)、「訪ねる」(お訪ね:伺う)、「食べる」(召し上がる:いただく)、「見る」(ご覧になる:拝見する)。どうやら謙譲語基本は「御(お・ご)〜する」がパターンらしい。「〜させていただく」ではなく「〜させてください」。

 

 そして「お先に帰ら(さ)せていただきます」ではなく「お先に帰らせていただきます」の「さ」抜きがポイントらしい。それでは、この辺で今日のブログ「お開きといたします。」