Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

口は出さずに金を出せ!

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   先達、爺のハチトリ御大師これぞ名言を賜った。とかく爺婆は自身が自身の子を育てた時を思い起こしたように、孫のしつけや教育にまで口を出すようになった。「ウッセイ、上えうっセイワ!」が元凶~!

 

    子どもは男にせよ女に所帯を持てば、必ず血筋の違う嫁や婿がかかわる。ここに暇を弄した爺婆が口を出す。「うちの嫁がねえ~、オラ方の婿が・・・」と言っているうちは姑や男姑の小言と諦めも利く。

 

     ところが、これが家を建てるとか、孫の育て方や進学進路に口を挟むようになると事態は変わる。自分の子を超えて孫の人生や教育に関わるとなるとどんなに血を分けた子供でもそこは「いけねえ~!わ」。

 

    つまり、爺婆は「ああせい、こうせい」と口を出すのは味の素ならぬ争議の種にもなりかねずそれに火が付くと後世、人生を終えても葬儀の席で故人を偲ぶことばが恨み節にも変わってしまう。

 

    歳を重ねるということは、全てに寛容に鷹揚になり「いいわ、いいわ!」と頷くだけでそれが人生の深みを反映するのだ。

 

  ところが、哀しきかなついつい、孫の躾や嫁や婿の仕草や振舞に口を挟んでしまう。直接婿嫁に小言は云えないので遠廻しに、皮肉る。これには相手も敏感だ。場合によってはその一言が一生つき纏う。

 

 リタイア後、とくに歳をとると自身の周囲で起きる何かと目障り、耳障り。「ああせい!こうせい!」と口を出したくもなる。

 

 その昔、夏休みともなるとエアコン不要の信州の義母宅に家族全員で長逗留した。我が者顔で勝手に冷蔵庫は漁るは、名跡や巡りや食事は昔ながらの老舗を追い求め、時には穂高まで蕎麦や観光を楽しんだ。そして、娘の手前なのか離松の際に必ず半端ない小遣いをくれるのだが、それを断ると、世話になったにも拘わらず一言も云わず車の中に万札をホオリ投げる。つい、昨日の事ように思い出す。

 

 そうした関係が、絆を強くするとは分かっていても、ついつい口を出してしまう我が爺。孫の育て方に口を出しているうちはいいが、これをパートナーに向けると治まりが付かないことになる。兎に角、「口は出さずに金をだせ!」これぞ名言。

年貢米

 

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 本日のサブタイトルは「大名主からの答礼」とでもしておこう。名主、地頭、地主、荘園主もそうだが、これって、平たく言えば昔でいう「庄屋さん」のことネ。兎に角、広大な田畑を所有している。地目が農地や畑のままでなら良いが、これが一旦「宅地」並み課税となると、相続時に年貢の分担(相続割合や対税問題)で相続人の間で揉め事の原因ともなる。

 

   さて、その大名主さんから毎度、晩酌で楽しみにしていた「酒の肴」が尽きたとの公開情報が流れた。スワっ一大事とばかりに畏れ乍ら不肖この徳兵衛、当地の特産品を「酒のお友(伴)を欲している」と邪推し、勝手にご自宅に肴を贈った。

 

   案の定、翌日早速この大名主さんから連絡があった。家人に「請求書が入ってなかったか?よく見ろやい」と聞いたらしいが、これ名主さんの精一杯の感謝の情を想定内のジョークと心得、恐縮するばかりナリ。

 

    問題はこれから、これに応えるようにご丁寧にも小作人に作らせた年貢米の米俵一俵(本当は10㎏)の答礼品が早速わが家に届いた。欠食夫婦にとってはこの上ない贈り物だ、アリガテイ、ありがたや。この米俵、宅配便のお姉ちゃんが軽々と運んできて玄関先に置いていった。これからが難儀。この俵が自力では持ち上がらず、引きづりながらやっとの思いでクローゼットに押し運んだ。

 

  その昔、山登りでは、ザックに10㎏程度荷物なら平気で背負えたのがまるで今の当方とは別人、ウソのようだ。大病と老齢でつくづく体力が落ちたことを痛感させられた。60歳ごろまでは体重も80kg近くあり、福井(腹囲)も90cm近くあった。

 

 それが、今や体重は俵3俵分(本当は30㎏)に筋肉も落ちスラクッスはぶかぶかでサイズは会わず、履けばまるで箸袋に爪楊枝を入れているようだ。それにしてもこの過重を毎日背負って社会生活や日常生活を送っていたかと今思うとゾッとする。

 

 反面、当の大名主さんは、入社の頃50㎏の体重が半世紀かけて体重が30kg増量の80kgにもなって完全なるヘビー級、だから日頃の生活にも支障を来たしているとの由。それ以上にその醜態に人が立ち寄らなくなったという。

 

 まあ、コロナ禍の折、出入りが少なく家に居る時間が多いことをおしゃっているのだろうが、大名主さま、くれぐれも肥満(デブ)と高血圧にはご注意下さいませ。

 

 齢(よわい)を重ねると「眼、歯、足、腰」からガタが来ます、これをケアしないとそれこそ「年貢の納め時」になりますので重ねてご注意を・・、米俵!!アザーッス!でした。

リモート親父の斜め読み

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 寄合に集会、会議、打ち合わせ好きが背景にあるのか、何故、日本にはリモートワーク(テレワーク)が根付かないのか、今日はその訳を探ってみる。新しい働き方としてのテレワークだが、コロナ禍の中出だしこそソコソコの取り組みだったが、足元実施率は全体の30%程度に留まっている。

 

 社員もテレワークの関心は高いもののイザ実施となると尻すぼみ。感染覚悟でもラッシュの電車に揺られてのご出勤。どうやら企業も社員に出勤して貰った方がいいようだ。

 

 まあ、日本のIT化は所詮「ざる」だけにセキュリティにも問題があるのは事実。そのうえ離れた場所や毎回異なる場所からネットワークをつないで、社内システムにアクセスされると情報漏えいやウィルス感染などのリスクに晒される危険性も高くなる。

 

 関係者に本音を訊くと、威厳を保ち指示、命令したがりの経営者や上司にとっては、テレワークでは面前の部下やスタッフをデスクの前に立たせて「喝!」を入れられない。だから、彼らにはこれほど使い勝手の悪いツールはないのだ。裏返せば従来からの日本型の働き方から抜け出せないのだ。

 

 とはいえ日本文化も生活も「協調性」や「和」が重視、重宝されてきた。お仕事も同じで、「相互扶助」、「協力」が美徳とされてきた。垣根を越えてお互いに助け合いながら働くには上司、社員同士の対面によるコミュニケーション必要なのだ。

 

 それが証拠に、対面授業が叶わずリモート授業を受ける大学生は一度もキャンパスにも行けずフラストレーションは増すばかり。それに友達も作れずサークル活動も出来ない大学生活に全く魅力を感じないと休学や退学する学生も増えている。

 

 よく考えてみると、昔からムラも町も住民らは自治会活動、祭りや運動会など事あるごとに公会堂や公民会に集まっては、意思を統一して地域が一丸となって取り組んできた。夜になると女性軍は小学校の体育館でのママさんバレー、旦那方は運動場でソフトボール。昼に床屋に行けば知り合いが髪も駆らずにお茶をしながらダべリング。縁台では将棋や囲碁に興じるにわか棋士もいた。

 

 つまりですな、日本人はもともと家に籠っての活動は苦手でそうした文化には馴染まない種族。多くの日本人は他人と違うことを非常に嫌う。同じ時に同じことをすることが「和(地域・組織)」の基本となっている。この点は、欧米文化、価値観と大きく違うところだ。

 

 そう考えてみると、「のど元過ぎれば」ではないが、このコロナ禍の感染拡大にあっても、リモートワークが減りだすのも解らなくはない。長時間通勤しながら社員は全員が同時に出勤し、働き、休みも休暇も同時に取る。そして退社したら赤ちょうちんで仲間と愚痴を吐くといった労働環境が馴染んでいるようだ。成果はともかくとして、それが「今日も仕事をしたあっ!」という社員の充足感、満足感にも繋がっていることだけは事実のようだ。

 

 かの如く日本独特の労働文化があるため、それぞれの社員が各自のタイミングで、社外の別の場所(家)で仕事をするという考え方に多くの人は慣れていない。そればかりか、年がら年中、家に居る同居人に妻も旦那も内心は互いに早く出勤してくれと思っているはずだ。

夜桜おシチ

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 春の早朝散歩は真冬と違って、いろいろな景色や鳴き声が聞こえて来る。相変わらず旧家の母屋の庭先にある鶏小屋から今日も雄鶏が「こけここーうっ~!」と絞り出すような鳴き声で朝を告げる。

 

午前2時過ぎからこの連続だからご近所は相当ご迷惑だろう。しかもこの鳴き声だけは春夏秋冬だ。それにしても長いきな鶏だ。

 

 でも、ご近所は地主の土地を分譲して頂いた新興住宅。新参者には、早々に文句やクレームも言いにくい。それにしても、こんな都会のど真ん中でもキツネ、タヌキやハクビシンが目の前を横切る、車に轢かれるのは日常茶飯事でこれとて珍しいことでも何でもない。

 

 でも、最近はうす暗いうちから春の小鳥のシジュウカラキビタキヤマガラがいい音色で囀ってくれる。シジュウカラの鳴き声などは「すき、スキ、スキすき!!」とでもいっているようで、ずっとこの四拍子が心を和ませてくれる。

 

 気のせいか耳を凝らすと遠くで蛙の鳴き声も聞こえて来るような気がする。日の出も少しづつ速くなり、季節は確実に冬から春へと向かっていることが実感できる。

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 また、一つ歳をとると思いながら、散歩コースの桜並木をくぐりながら坂本冬美の「夜桜お七」(作曲:三木たかし)を口ずさむ。何といってもこの楽曲、途中で変調してアップテンポになる処が実によいのだ。

 

 「さくら、さくら~♪、いつまで経っても来ぬ人と、死んだ人とは同じこと、さくら、さくら花吹~雪、抱いて抱かれた二十歳の夢のあと、おぼろ月夜の夜桜お~七♪♪」てな感じで歌詞を鼻歌交じりで朝露の道を徳兵衛今日も散歩する。

 

 この処、感染が怖くてカラオケも行っていないし、外食もほとんどしない。その分、世間も随分と狭くなったが、唯一の楽しみはこの早朝散歩だけだ。😊😊

ご愛嬌とお愛想

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 ご挨拶や、会話の中でよく耳にする「ご愛嬌と御愛想」この言い回しについて改めて考えてみたい。どちらも「愛」という字から始まるが意味が全く違うようだ。

 

  「愛嬌」とは「あるものに備わっている、もともと身についた性質」のことを示すことに対し、「愛想」は「他人や周辺に対して、発語する主体が意識的に振る舞う動作や態度」を表しているらしい。

 

    つまり「ご愛嬌」とは生れながらに自然に備わっている性質や性格。「愛想」とは、意図的に対外的な所作だから、ある意味では真逆の世界と言える。いままでご愛嬌とは「かわいく愛らしい」や「にこやかでかわいらしいこと」や「ひょうきんで憎めない表情やしぐさ」などを意味さまを言うのかと思っていた。

 

    だが、突き詰めれば愛想とは「人に接する時の、好意的な態度」、「他人に対する好意や信頼感。またそれを示そうとする行動」を意味する意図的、恣意的な言葉遣いのようだ。

 

「愛想」の「想」という字は、「相」と「心」から成っている。「相」は相互に向き合うことを示しているので、「他人に好かれようと、仕草や方法を思い浮かべる」といったあざとい表現にもみえる。

 

 「愛想」に丁寧となるような接頭辞「ご」や「お」をつけると「相手の機嫌をとるための言葉や振る舞い」や「お客に対するもてなしや気遣い」といった意味となる。

 

   業界用語で「飲食店などでの支払い、お勘定」に「お愛想」とよく使うが、この使い方は、本来は店側がお客に「愛想がなく申し訳ない」と謝りながら勘定書を差し出していたことに由来しているようだ。

 

「愛想」の類語は「親愛」、「厚遇」、「厚情」、「おもてなし」と意識的。

「愛嬌」の類語は「かわいい」、「愛らしい」、「チャーミング」、「キュート」と無意識。

 

    心情や生来の性格などを裏付けとした「愛嬌」に対して、所作に現われる「愛想」。時にお相手に「愛想が尽きたわ!」と言われたらもううオシマイ。そのようにしてお相手の言葉や所作を捉えると、それがご愛嬌なのかお愛想なのかがよく分かる。

 

   ご愛嬌とお愛想を巧みに使い分けて、ここまで生き抜いてきた当方、とうに本性が見透かされていたかもしれない。