Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

「夜の甲府」で・・。

 ご存知の方はいらっしゃるだろうか?裏春日では「スマロ」の餃子に「富士アイス」の自慢焼き、「清水屋」のお稲荷さんに、スナックやキャバレー「美麗」に「赤と黒」に「松菱会館(旧中込百貨店や岡島百貨店と双璧をなした旧松菱)」、幼き頃ここで屋上に檻の中で飼われているおサルを観ながら、これが本物の飛行機だと信じて遊覧機に乗った覚えがある。

 

劇場映画と言えば「甲府セントラル」「甲府宝塚」「武蔵野館」に外れの「国際劇場(朝日通り)」ソチラサマ方御用達の「甲南劇場(南甲府駅前)」。定食なら「若奴食堂」、居酒屋なら「酒蔵」、銭湯なら「鏡湯」「寿湯」「長松寺温泉」、それに雀荘なら・・・と幼少期から地元甲府勤務時代に通い詰めた昔が妙に懐かしい。

 

寿司と言えば柳小路の「柳寿司」裏春日の「鮮八寿司」に寿町の「ちひろ寿司」に旧商工会議所前の「魚そう」、トリモツなろ「奥藤」、カツなら「菊水」。ここではシャリとネタのデカさで東京から地元山梨に時折帰省した羽振りの言い叔母が好んで食した。

 

寿司など普段あまり口にできなかった拙者の幼少期、ご相伴に預かったことも何度があって、子供心に楽しみの一つだった。

 

付け足しだが、相生の「蓬莱健のタンメン」は格別に美味かった!!

どうやらいよいよ焼きが廻ってきたようで、何しろ昨日のことは全く覚えていないが遠い昔のことだけが思ひだされる。←「老人ボケ(認知症)」の典型的症状だわ!

 

 さて、さて、地元山梨でもこの唄を知っている方は何人いるだろうか?今宵にお披露目するのは知る人ぞ知るご当地ソング「夜の甲府」。

 

歌:森雄二とサザンクロス

作詞:広瀬 善正

作曲:中川博之

発売:2005-10-13 04:44:56

 

 

夜の甲府で はじめて逢って

恋のにがさを 知りました

女ごころの はかなさ弱さ

今日もあなたを 待つわたし

 

こんな私に したのはあなた

そんなあなたに したわたし

それを承知で すべてを賭けた

恋に身を灼く 裏春日(ここがこの歌の一番大事なフレーズ!)

 

恋の城跡 涙に暮れて

街の灯りも ぬれている

どうせあなたは 他国の人よ

泣いて別れた 甲府駅・・・・🎶

 

 

 

 どうでぇ・・いい歌ずらじゃんけ!!おまんとうも、一回聴いて歌ってみろしっ!!

 

 

ヒゲの園長先生

 春の選抜高校野球も終わり、「祭りのあと」といった寂寞な気持となる。こうなると気が引け、とかく昔のことを振り返りたくなる。広島の広陵高校青森山田に負け、その雪辱を中央学院大学付属高校が果たした。まるで、広島の仇は千葉で!とでも言わんかのごときだった。さて、今日は同じ付属高校でも徳兵衛の地元で昨春選抜高校野球優勝の山梨学院大学付属高校関連のお話。

 

 この山梨学院もベスト8まで勝ち残って校旗掲揚と校歌斉唱が流れる中、ふとあることに気が付いた。なんと学院高校校歌の作詞が「古屋眞一」となっているではないか。この作詞家は当時学生や関係者から「(大学の)院長先生」と呼ばれていた。

 

 何故こんなお話をするかというと、当時の学院大学は4年生大学でもなく付属高校も併設されておらず、児童教育、栄養科などしか有しない単科短大だった。そんな背景があったのか短大にも拘わらず「幼稚園」だけは設けていた。

 

 甲府の外れ、酒折のブドウ畑の中にポツンとあった大学校舎に荒れたグラウンド。経営陣に古屋一族が名を連ねた山梨学院大学。当時は地元の衆からは「ガクイン」、「ガクイン」とその教育レベルの低さが蔑視されていた。

 

 ただ、唯一県内では初めての山梨交通(旧共済電鉄)の路線バスを払い下げてもらってのロングノーズの園へのスクールバスを市の中心部から走らせていた。いまでも水たまりの砂利道をガタガタとけたたましい音を立てて園児を乗せて走行していたことを思い出す。

 

 それが、今はどうだろう東大に何人も排出する名門私立大学に成長し、大学の周りの殆どを買収。野球専用グラウンドは持は、学生寮が林立するはで公立高校を押しのけ一躍進学校に躍り出た。

 

 そのきっかけを作ったのが順大から招聘した上田監督の下、あの「ガクイン」が箱根駅伝に出場。彼の戦術はイワシの群れにケニヤ出身のおぼこを連れてきて驚かせ鍛える。しかも、そのイワシは高校時代1番ではなく2番、3番さらには補欠選手を全国から集めてモチベを挙げて競わせる手法だ。その結果、箱根も何度も総合優勝を経験し全国区に名を挙げた。さすがにこれには地元も驚いた。

 

 多くの高校がそうだが、とりわけ私立は学校運営のためにこうした進学路線とスポーツ路線(文武両道戦略)をとる。しかも全国にTV中継される甲子園や箱根駅伝は格好の自校や学校法人グループのPRともなる。

 

 野球留学や陸上留学が流行るのもそのせいだ。前述の青森山田然り山梨学院然り、津軽弁を話せる選手や地元中学から正選手になった生徒は殆どいない。だからこそ一方で地元の熱はさほど上がらない。

 

 なにゆえ、本日のお話をしたかというと、スクールバスに毎日乗って学院大学付属幼稚園(担任は確か樋口先生かと・・)に通ったのはことあろう「この徳兵衛」なのだ。しかも「ヒゲの園長先生」は、かの「古屋眞一」だった。今から70年以上も前のなつかしいオモヒでだ。

穴切(アナギリ)

 「穴切り」、この言葉の響きを聞いて、「ハタっ!」とった思った方は根っからの地元通のtuu!この響きいかにもという感じですよね。ことあろう、今は昔、我が徳兵衛ここ「穴切小学校」の繁く通っい、首席でご卒業あそばしたお子ちゃまでありました。学校の隣接には県の重要文化財の「穴切神社」もある。

 

さて、この穴切の由来を紐解くと、外から見るとこれが結構奥深い。「内」を信州から呼び寄せたとき義父はこの地の名に強い抵抗(拒絶感・難色)を示した。そこで当方自らが当地のご紹介と相成った次第。

 

 近くには、春日小学校もあって甲府の飲み屋街のご子息がカネ振りもよくトッポイ連中が多かったことを思い出す。この小学校は裏春日と言われる飲み屋の子息が多かったせいで校風がそうなった。今は穴切小学校も春日小学校と相生小学校も統廃合されて名を「舞鶴小学校」に改めた。

 

 市内の旧町名はその歴史と謂われを物語るが今それを知る人も少ない。

 

 さて、穴切。ウィキペデイアによると・・・

 「明治時代新たな遊廓設置場所は甲府市街地の西、相川左岸の通称穴切田圃(現在の甲府市宝1丁目)と呼ばれる水田一帯であった。大火のあった明治40年の年末には22楼の遊廓が全て移転を完了し、穴切遊廓(別名、穴切新地)が成立した。

 

 公に認められた山梨県の遊廓は上野原にあった僅か2軒の小規模な関山遊廓と甲府の穴切遊廓の2箇所のみであり、村行彰著『日本遊里史』(1929年)の巻末付録として掲載されている『日本全国遊廓一覧』によれば、穴切遊廓の貸座敷数(軒数)は21軒、娼妓数201名を数えた。

 

 また、別の昭和初期の記録によると娼妓数は280名を数えており、これは遊廓を擁する他の同規模地方都市と比較すると突出しており 、甲信地方では最大級の遊廓であった。

 

 しかし、1945年(昭和20年)7月の甲府空襲により穴切遊廓は全焼し[3]、翌1946年(昭和21年)にGHQの指令により公娼制度が廃止されると、穴切遊廓のあった一帯は、カフェーや料亭などに看板を変えた、いわゆる「赤線」地域として存続したが、1956年(昭和31年)の売春防止法の成立、1958年(昭和33年)の同法施行により、穴切遊廓は完全に消滅した。

 

 往時を偲ばせるものは、古い建物の外壁に僅かに残る公安委員会によるカフェー許認可プレートのみで、2020年現在の穴切地区はマンションなどが建つ普遍的な住宅街となっている。山梨県内にはとても変わった地名がたくさん残っています」とある。

 

 しからば、「穴切地区」とは、甲府駅から南西に向かって徒歩5分から8分ほどの場所。現在は甲府市宝。ところどころに、黒板塀のりっぱなお屋敷もある。

 

 大門(おおもん)の中には何軒もの遊郭が軒を連ねていた。小学の同級生もこの大門中の〇〇楼(ここはお知らせを差し控える)の遊女置屋の息子だった。

 

 でも、学校も神社も遊び場もあり、かつては子どもたちの賑やかな声で活気のある地域だったのだ。

 

 こんな「思ひで」をよくよく口にするようでは「老いぼれ」を自覚せねばあるまい。歳はとるまい、拾うまい!!

会えるも別るも孫の声

 先月、春休みを利用して娘が孫娘二人を連れて瀬戸内海の小島から新幹線を乗り継いで当地に赴いてくれた。

 

 久しぶりの大賑わいの拙宅。子供の声が聞こえる地域や家庭はどこでも活気がある。しかもその上、そこには未来と将来がある。公園や校庭での子供の声がうるさいとクレームをつけるくだらぬ住民も多いが、翻って自分たちの子供の頃を思い浮かべて欲しい。

 

 来宅の途端、何しろ食べ物はハカが行くし、ゴミの量も半端ない。しかも先日買った12ロールのトイレットペーパーがあっという間に底をついた。

 

 来たときはそのリズムに老夫婦が立ち往生、困り者だと、厄介だと閉口したが昨日孫たちが帰ってみればこれほど寂しいことはない。

 

 道徳、ルール、倫理、道理、秩序、正義感が欠如する今時にあって、親子、孫への情愛は欠けることはない。「会ってうれし、別れて淋し孫の声」と、この歳になってしみじみと味わう。

本音に共感

 このご時世当たり前だ、道徳観念が薄れ、モラルもマナーもあったものではない。それが至極当然にして世どころか地域の秩序をも乱す。インバウンドによるオバーツーリズムの弊害。地方再生に名を借りた、「ムラ八」移住ブーム。その七割から八割が地域に馴染めず、溶け込めず再び元ある棲家に帰っていく。

 

 地域社会は、考えている以上に過酷な試練を要求される。ゴミ出しから始まって町内会の役員、復興や活性化とはいうものの、一方でよそ者が掟も知らずに・・・こうなると移住民が異獣民ともなる。

 

 現場の声は良く分かる。この国がどこの国であって、その地のしきたりや風習を全く理解(覚悟)しないまま、飛び込むと治外法権どころか一揆に地域は元に戻る復元力をなくしてしまう。

 

 そんな中、飯山江沢市長 下水道にマスクや紙おむつを捨てる人に対しての差別発言「こやつら腐ってる人間」、ところが、この発言「当地はその手の人種が多く住み、行き交う地域だ」と誤解されてしまう。これでは元も子もない、

 

 でもこれ正直、本音ベースと強い共感を覚える拙者。やっとここで北信の雄、御大が長年愛着した「イイヤマ」。駅前の駐車場敷地の件と言い、駅前ホテルの一件と言い、何かとお騒がせの地方区「飯山」がとうとう全国区に名乗りを挙げ、ニュースにも取り上げられ、知名度向上にも一役買った。

 

 以下、《人間腐ってきてるな》X投稿で削除謝罪…長野県飯山市長のエリート人生と故郷への思いと、3/25(月) 16:32配信、日刊ゲンダイDIGITALから・・・

 

 

長野県の県都長野市から北に30キロ余。冬は豪雪地帯で知られる人口2万人の飯山市の市長が、X(旧ツイッター)に投稿した文言が話題となっている。

 

 泉房穂氏が激白!「国民を救い切るには衆参計5回の選挙で勝つこと。そこまでやって日本の夜明けが来る」

 

 2023年12月、江沢岸生市長(70)は、市内の下水道にマスクなどの不織布や下着が投棄されていることを問題視し、《全くどういう神経してんだよ 人間が腐ってきてるな》などとつづった。この投稿が今年3月議会で取り上げられ、「人権侵害ではないか」と追及される展開に。指摘を受けた江沢市長は投稿を削除。22日の会見で「より強く市民に認識してもらいたいという思いから、投稿した。飯山市の水道行政でいちばん頭を悩ませていること」「ポンプの故障につながるし、職員の苦労を思ってのことだった。品位を疑われる表現については反省をしている」と謝罪する事態となった。

 

 「人権侵害」の政治家といえば、自民党杉田水脈衆院議員(56)だろう。アイヌ在日コリアンへの差別的言動を繰り返し、法務当局から人権侵犯認定されている。

 

 これに対し、江沢市長は職員や住民生活に迷惑をかける行為をやめるよう注意喚起したと言ってもよく、ネット上では《言葉がひどい》《いや、少し強めに言わないと迷惑行為はなくならない》などと賛否両論が飛び交う状況となった。

 

 ■過疎化で寂れていく故郷を何とかしたいと奮起

 一気に全国区になった江沢氏は一体どういう人物なのか。

 

 「地元の県立飯山北高、茨城大を経て、行政管理庁(現総務省)入庁。大臣官房審議官に就き、2010年に総務省を早期退職しています。56歳の時です。それから10年以上経ち、過疎化で寂れていく故郷を何とかしたいと奮起して市議になり、2022年の市長選で初当選しました。公約では、給食費の負担軽減、18歳までの医療費無料化などを打ち出し、市民の反応もまずまずです」(地元記者)

 

 総務省の審議官といえばエリートクラス。故郷を立て直したいと市長になったぐらいだから、その熱意は伝わるだろう。

 

 「飯山市は人口がどんどん減っていて、これを早く何とかしないといけない。新幹線の駅が出来たのはいいが、逆に子供が都会に行きやすくなってさらに人口減に拍車が掛かっている。目玉の観光産業も乏しく、『飯山仏壇』で知られた仏壇店が複数並ぶ通りは閑散としていて、まさに仏壇通り。笑えない状況になっています。余談ですが、今の市議会の構成は市長派ではない、いわゆる“野党”が多数を占める。今後も市長の言動がいろいろ取り上げられるでしょうね」(同)

 

 少しでも市民生活を良くしたいとの思いから、踏み込んだ表現になったのかもしれない。と、「お答えは差し控える」「存じ上げない」「(税金を)払わない」などが横行する国会答弁。そんななかで建前論ではなく市長の本音、本心には共鳴できる。