Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

常在戦場

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 梅雨前線が南西からの湿気のある大気を刺激し、九州熊本、鹿児島県北部までをも「線状(戦場)降水帯」が覆い。球磨川の水位は一晩で3mから11.8mを超えるまでに。ほどなく上下流全域で氾濫。山間合いの集落に限らず市街地も軒下まで水がつき、濁流が街中を暴れ河の如く荒れ狂う。

 

 この様子はニュースでご覧の通りだ。冷蔵は流れて来るわ、畳や便器はおろか車や重機、家屋敷までもが流されてくる。GSのガソリンは溢れて漏れ出し、プロパンボンベ、流木と一緒に糞尿、犬猫や牛・豚の家畜までもがどんどん流されていく。石化製品やプラゴミの3%にも満たないレジ袋の有料化に躍起となっている。その一方で、風水害被害で洗濯機や大量のゴミが海へと向かって流れていく、何たる皮肉な現実。

 

 常識的な報道や番組ではこうした「えげつない光景」は、視聴者に動揺を与えるとの理由から極力放映はしない。でも、その反面、毎度、毎度ワイドショーの冒頭では、TV各局ともお決まりのように、中国での事件や事故、爆発に穴に落ちた子供の救出劇を紹介している。そして、高速道路を逃げ回る盗難車をヘリとパトカーで追跡するのは決まって米国内事件だ。

 

 これって、魔除け、厄除けなのか?「絵」的な慣習(TV監修)なのか?それとも在日中国人や、不法在留者向けの番組づくりなのか?今度、この裏事情を暴いて見せる。

 

 さて、冒頭の球磨決壊に氾濫。去年はチ・クマ川で、ナンで、今年は熊本県のクマ川なんか?どうやら、ここ二、三年「熊」がキーワードだ。水害って、水が引いた後がスゴク大変なのですぞ!床下や室内に堆積した汚泥の始末。住むには相当の期間とカネが要る。下水管は泥で埋まりトイレはクソの山、街中は悪臭に異臭。犬猫やペットの屍はゴロゴロ。

 

 一度水に浸かった家屋、屋根瓦が吹き飛んだ家などはマズ住めない。そのうえ、向暑の折、伝染病や疫病が蔓延するのは必定。偽善丸見栄見えのド素人が「ボランテイア」のフリをして支援、援護、援助を申し出るが、彼らの全てが善人ばかりではない。機に乗じて窃盗、詐欺や略奪も多く治安も一段と悪化する。レジスター、(手提げ)金庫にATM、現金、カードに通帳。これね、この徳兵衛、東日本大震災時に東北に出向き、港湾に浮かぶ屍体の山や卑劣な現場や匂いを目の当たりにしているので、悲惨な実態がよく分かるノヨ。

 

 「被災者支援」と聴こえはいいが、こうした人々、現実は「ウィルスや病原菌の運び屋」と「犯罪集団」。そんな声がシナに届いたのか!今度は早々に「豚インフルエンザが流行の兆し」と、世界に向けての情報発信。武漢発祥の隠蔽が相当、身に堪えているようだ。

造って、もッテル!よね。

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  1日にディズニーランドのオープン再開がもてはやされる一方で浅草「花やしき」の開場はニュースにさえならない。これって浦安市オリエンタルランドマスゴミの策略か。開園が一斉に報道される反面で、危機的な状況を煽る。そんな中、官邸、ズ民等幹部は、選挙を睨んで、夜な夜なのご接待にご会合の連続。まさに古典的な抱き合わせ販売の典型。

 

    ヒトたらしのオイケ都知事もねえ!新宿の次は、今度は池袋かよ、当初から赤坂、六本木は夜のまち関連ではないのかと不思議に思っていたが、案の定、あしたのジョー!今度はダサイ埼玉の玄関口の巣鴨プリズンのブクロだってヨ。

 

    急に、大野ダサイ玉知事が「由来」という言葉を使って、東京往来自粛を宣言したと思いきや、翌日に緑のオバサンが三桁連続の感染者ご報告。これって、出来レースで大野君事前に感染者拡大を知らされていたなあ。さらに西ム~ラ担当大臣も知っていたはず、専門家会議の廃止も、感染拡大、実数把握もお仲間うちではツーツー。知らぬは庶民ばかりで猿芝居にも似たマヤカシの連続だ。

 

   時に報道も偏向ばかり。検査対象、検査数を公表しないまま感染者数だけを公開しても何の意味もない。例えば、検査対象を20代、30代に偏重すれば、感染者の多くは若者の感染が拡大と云う報道にもなる。また、検査対象を「夜の街関連」に限れば、いくらでも水商売はヤバイという世論を形成することができる。

 

 つまり、情報統制によっていくらでも世論や風評、心象はコントロールできるのだ。次は、巣鴨地蔵尊通りでクラスター発生!」とでも喧伝すれば、一挙にお年寄りたちの危険が危ないとされる。このように操作や脚色すればいくらでも世論を誘導できる。

 

 都知事も哀れな人生を歩んでいると、気の毒に思う。若い身空で離婚を経験し薄幸の人生を歩まざるを得ない彼女にモノの哀れを感じてしまう。都知事のイメージは、友達になろうとしても、絶対に相受け入れない心象って一体何だろう。歪曲、歪んだ人生経験が彼女をそうしてしまっている。彼女、哀れと云えば、哀れの極みだ。

 

 一都民としても残念だが「レ陰謀ブリッジを真っ赤に染めながら、『もう東京アラートはしません!』」というのだったら、「休業補償で都の財政(調整基金・米櫃)がひっ迫しまして、もうおカネがありません」と正直に本音を吐露した方がよほど気楽なのに・・ナ。

 

 官邸、政府筋、都道府県知事や閣僚の一人が感染して亡くなれば、これほどの国民に危機感を醸成、説得性のあるプロパガンダもあるまい。百の説教より一つの現実と行動!!

 

 それにしても、地元山梨の感染女(県感染者番号55号)は検査途中で東京へ逃げ帰り、新宿ホスト(同74号)は判定結果前に故郷山梨に帰省し、挙句に陽性入院かよヤマナシ撒き散らし寿司」だらしのない奴ばかりだ。

ピアノ売って、チョウーダイ!

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 ついこの間まで、もつ煮の「こてっちゃん♪」CMをしていた財津一郎「タケモト・ピアノ」のキャッチコピーだ。彼は今でも元気にしているのだろうか?だって、今日はもう七月の三日のアップルパイ。

 

    さて、今日は標題の「頂戴」について考えることにした。実はこの言葉には二つの意味がある。一つは、「もらうこと、もらって飲食すること」で、もう一つは「与えて、売って」との意味があるようだ。だから、タイトルはそれに「売って」に「頂く、戴く」が重々と重なるからクドイ響きとなる。

 

     ご専門家のご意見を拝聴すると、「売って、頂戴っぃ!」という表現自体は、一般的には「それが欲しい」と解釈できるものの、「頂戴・する」となると、「もらいたい」ではなく「もらう」、「もらった」と強行的な意思が感じられるとある。

   

   個人的な感覚だが「する」を付けずに、「チョーダイ」だけを捉えても、アクセントのつけ方によって意味合いが全く異なる。強調点を後ろにすればするほど、甘えたおねだりの色彩が強くなるような気がする。「もう、あなたって人は甘えん坊だから仕方ないわ・・ね!」てな、お相手との間は甘い雰囲気にもなる。

 

    時に、現役時代部下と会食をした際、部下は「食べます」から始まって「頂戴します」を平気で使う奴等が多かった。ここは上司に敬意を表して「いただきます」が正解だろうに、今思えば「お召し上がりますか」のとの言葉の知らない連中が意外に多かった。

 

     ただ、これほど多様な意味を持った言葉もあるまい。謙譲語、桂子に敬語、尊敬語に丁寧語と・・。神社で神主や坊主などがが「もらう」ことを表す時には「頂戴」に変えて「お納めになる」を用いる。

 

    さて、こうなると、この言葉を使う時は難儀だ。しからば、語尾に「ですます調」を付けて「ます」をつければなんとかサマになりそうだ。例えば名刺交換、電話連絡や契約書の締結の際にでも「(お名前や肩書を)頂戴いたします」とすれば、少なくともお相手の皆様は気分は害さない。

 

このフレーズ、お相手のご事情を聞く時にも重宝だから、ビジネスに限らず、ご近所や父兄会や夫婦関係等で言葉に行き詰ったら「頂戴します」の最後に「助かります」のダメ押しフレーズを付ければ、これこそ殺し文句!!

 

 これでダメなら「いただく」「賜わる」「拝受する」を用いると、グッドお相手に対する心象も良くなる。

 

    ところで、皆さん、最近、お近くで「頂戴!」とのフレーズを聞いたことありませ~んか?

違いが分かるⅣ?(エールの交換:末巻)

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 「区別」をすることは人間が生きていく上で、重要なことだ。「区別」がなければ自身を高めることもできなければ、危険から身を守ることもできない。だが、それが決めつけた嘘やニセの知識によって、これが「差別」につながるとするのが一般論。

 

 ところが、最近は大人と子供の区別さえこれを差別だと云い始めた。それでは、子供料金も、三歳未満の乳幼児の航空機への搭乗も「差別」にあたることになる。一定のハンディや特性を認知していてのお話なのだから、これをそもそも「差別」とは云わない。

 

 ただ、悩ましいのがその境界線にある事態。例えば、正規雇用社員と派遣社員などの非正規社員は、ある時は区別だが雇用環境が悪化すると「雇止め」、「ハケン切り」などの差別問題が生じてくる。だが待てよ、もともと事情や背景がそれぞれ異なるにせよ、フリーランスは一定の体制に拘束されない、つまりサービス残業年功序列や終身雇用に対して抵抗感を持っていた人々だった筈だ。ここで、彼らのことを「人々」と呼んだがここで当方が彼らを「族」と呼んだ途端に「差別化反対」の大合唱が起きるだろう。

 

  でもね、マーケチングの世界でも差別化戦略なる営業手法が堂々と存在しているではないか。この場合の差別化とは、モノが溢れる市場の中で他社とは敢えて異なる価格、サービスや商品に明確な違いを生み出すことによって、各社が鎬を削って生き残りを目指している。何故なら、大衆も消費者も選択肢が多くて、それぞれの違いが分からない場合に、消費者に限らず決断を回避する動きに出る。だから、売り手側はそこを突く。

 

 それがうまく機能しなかった場合には、お客からの人気を獲得できないまま、その会社は市場から取り残されるか、退出することになる。

 

 だからこそ、昔ながらの市場慣行や慣例にしがみついた企業や人は、いずれ淘汰されていく。故に、条件や環境があるにせよ差別は一定程度許容されるべきものだと思う。

 

 「区別」と「差別」を混同してはならない。前巻でも申し上げたが「偏見」とは、先入観による見方、考え方のこと。「差別」とは、正当な理由がないのに不利益な取り扱いをする行為のこと。やみくもに、ただ「差別」に反対することが是とはしない。何故なら、この世には偏見を持たない善人ばかりが共存していないからだ。

 

 最後にこの徳兵衛は、「差別主義者」、もなければ「偏向思想主義者」ではないことだけはお断りしておく。本日はこれにて都合四巻、全巻のオシマイダス。引っ張って、引っ張り抜いてきた映画「徳(寅)さんシリーズ」のようでございますのう~、「おそ松君!」。この次はもうこの手は使えんな!!

違いが分かるⅢ?(エールの交換)

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    ララ~♪ララ~♪違いが分かるオトコのコーヒー「ネスカフェ・ゴールド・ブレンド」!さて、この違いが良く解らない。とりわけ、最近話題のヘイト。差別や偏見は何処にでもあって、当方幼少の砌から某国人を茶化してはそれを遊びにしていた。でもここにきて差別、区別、偏見の使い分けが全く解らない。今はこれを問題視しているだけにも見える。

 

   心苦しくも、当方の身内をネタにしたくはないが、「障害者」と「健常者」いう区分けは「区別」なのか「差別」、それとも「偏見」なのか。辞書を引くと「区別」とは、あるものとの違いを認めて、はっきり両者を分けることとある。一方で、「差別」とは、偏見や先入観を元に特定の人々に対し不平等な扱いをすることとある。どうやら、「区別」は相手を認めた上での分け方で、「差別」は認める前に分けられてしまうことのようだ。だから、男女の別は区別であって、差別ではないとも書いてある。

 

    ふむ、つまり差別とは認める前の仕分けを排除することを云うらしい。だから、そのことを理解しないままに排除、排斥してはいけないらしい。でも、普通に常識や常態と違うと、当然にここに偏見が生れ、これに嘘や噂がつくことは良くあることだ。

 

   ところがここでご一考!〇〇、××問題もそうだが、元来「差別」と「区別」は生きる上で、重要なことだと思うダス。本来的に、人間はどの道、人種にせよ氏育ちにせよ、危険回避のため、いじめ問題然り自身を優越的な地位に置きたがる習性がある。それを区別だとか差別とか偏見だとかいって、これを一方的に禁じる行為は如何だろうか?

 

 もっと言えば、転校、田舎への移住に始まり、転居、転勤、転入、新入の際には、一定の差別を受ける。それは、前からそこに在籍、生活する在来種が外来種や新参者に対して拒絶感や嫌悪感を持つ。これは自らが生き残るために、他を排除する手段であることは当たりのことだ。だから昔から、日本人は外国人を外人と呼び、黒人と白人と区別してきたことに何ら抵抗感もない。むしろこうした感覚をも強制しようとする動き、例えば化粧品会社が、「ホワイトニング」のCFを自粛するようなことは、そもそも危ういと感じる。

 

     差別とは先天的に有るハンディや存在そのものを認めないということ。それを理解しようとせずに排除する行為が差別化に繋がる。政治的、思想的に極右、極左があるように振り子が一方向に大きく振れ出した時にその反動で差別化が激化する。結果的に、これが「差別化(反対)などの社会運動」に繋がっている。意識するほど差別化のウネリは強くなる。

 

    時に、「偏見」とは差別化手前の考え方や見方であって、ここで止まっているうちはいいが、これが挙に出たときに恐ろしいことが起きる。今日はここまで、続きは明日の心ダ!