Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

「さよならペンギン」

f:id:koushuya:20190217002542j:plain

 日本人は人種としてはアングロサクソン系ではなくアジアン系かモンゴロイド系。つまり狩猟・肉食系というより、どちらかというと農耕・草食系に近い。したがって、群れを好み集団的活動を本能的に好むという生態と習性を持っている。

 

 どちらかというと、自己実現や目的達成するために群れの中でその地位を確保し、様々な行動や活動をしている。つまり、餌にありつくためには集団で行動し、とりわけ群れの先頭や群れから離れることの危険性をよく熟知している。

 

 これは、肉食獣から自分たちの身を守ろうと、その弱さを補うために集団で行動するからに他ならない。例えば、南極に生息するペンギンは、身を守るために群れて行動する。 

 

    海中の獲物を求め海岸へ移動する際もいつも群れるが、どのペンギンも安易に一番先には海に飛び込もうとはしない。

 

    最初に海に飛び込んで、シャチなどの天敵に襲われたらひとたまりもないからだ。でも、集団が生きていくために、1匹のペンギンが最初に海に飛び込む。そして、それを傍観していたずるい「ミドルペンギン」の群れは、最初に飛び込んだペンギンの動向をじっくり見据え、無事に獲物を捕獲し戻って来たことを確認してから一斉に海に飛び込み餌を漁る。

 

    この最初の1匹目を「ファーストペンギン」と呼ぶ。このペンギン、一見すると大きなリスクをとるアホで間抜けなペンギンだと思うかもしれないが、ソコソコの餌にありつけるうえ、必ずしも「ミドルペンギン」が襲われないという保障もない。だから、外敵に襲われる危険度からするとどちらも同じだ。でも、群れの中で紛れて活動する方が外敵に捕食される確率は圧倒的に低い。もしや一番危ないのは群れから逸れ、最後に飛び込んだ「ラストペンギン」かもしれない。

 

    日本のあらゆる職場も、組織も、企業も、役所もこうした行動パターンを取りたがる。周囲を見て、周囲が同じような動きをした時に、それが善意であっても悪意であってもそのこと自体は問題ではなく、恐る恐るやっと思い腰を上げながら周囲と同じ行動をとる。

 

    彼らにとっては、実は自らの判断で動くことが大切ではなく、横並びで群れを乱さないことこそが重要なのである。これこそが日本人特(個)有の保守性、価値観であり、秘められた危険性や犯罪性でもある。

 

   マスコミの右へ倣への一斉(批判)報道や企業活動、釈明や謝罪に対するミドルペンギンへのにわか評論家の異口同音のコメント、地位に連綿と妄執する経営トップ、一向に減らない類似の凶悪犯罪、汚職、架空投資話や特殊詐欺事件など、枚挙に暇がない。

 

   声高で威勢だけが良いフレーズ、情(なさけ)や感情に訴える主義、主張、それに扇動され、自らの頭で考え自らの行動を取らない「ミドルペンギン」たち。

 

   ペンギンのようなヨチヨチ歩きでもいいから、「ファーストペンギン」に諂うことなく、もうそろそろ自分の脚で歩いたらどうだ、そこの腰抜けペンギンども!!

 

 そして、自らも飛べなかった当方のペンギン生活にもサヨナラの時がやって来たようだ。淋しい限りだが、しばらくは何も考えず全てをリセットして休みたい。

イワシの頭も(無)信心から

f:id:koushuya:20190216000157j:plain

    当方宅は本家筋ではないので、立派な仏間はなく豪華な仏壇も置いてない。でも、分家ながら当方跡目として田舎に菩提寺を持ち、檀徒としてお寺とのお付き合いはもとより、お墓の手入れ、法事などと結構忙しい。

 

   そればかりか、拙宅にはコンパクトな家具調の仏壇を誂え、神棚などとともに毎朝のお詣にお神酒を奉納し掌を合せ祝詞も上げている。仏壇には影膳を上げ仏花を取り換えている。そうした老夫婦の朝の姿を孫たちが不思議そうな顔をしながらいつも眺めている。

 

   そうしたことも信心深いからではなく、何かけじめと云うか、一日の始まりの儀式というか、凶事が起こらぬようにと、つまらぬことに当方自身が拘っているからだ。

 

   仏壇に向かっては「仏の掌の中で生かされていることへの感謝の念」を捧げつつ般若心経を唱えながら掌を合せている。

 

    また、神棚に向かっては「祓いたまへ、清めたまへ、守りたまへ、幸いたまへ」と二礼二拍手一礼をしながら神事の真似事を行っている。

 

    まあ、「この先どちらに転んでもそれも宿命」と達観した気分になる時は、意外とその日一日がゆったりと落ち着くのは何とも不思議だ。

 

    ところで、我が家の宗派は「曹洞宗」、御本尊は「釈迦如来像」。てっきり仏壇は位牌や先祖を祀るためのものと思っていたが、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。

 

   仏壇は宅内寺院でお寺の出張所みたいなものらしい。つまり、お釈迦様や阿弥陀様を祀り、亡くなった御先祖様や自らが亡くなった時に開祖の「ブッダ」に少しでも近づけるように願って脇侍として位牌を祀り仏具が誂えてあるようだ。だから、「浄土真宗」では般若心経も唱えないし位牌を祀らないとも聞く。

 

    昨今は、家族葬直葬、散骨、自然葬や墓終いと、仏事の簡素化や簡略が目立つようになり、それに伴って親戚や近所つき合いも希薄となった。それがお金の問題なのか手間暇の問題なのかはよく分からない。

 

   でも、宗派は違うが御本尊を「阿弥陀如来像」として祀ってある仏像をよくよく眺めてみると、意外なことが分かった。

 

    印相(仏像の掌のポーズ)が親指と人差し指を丸めて「ヘイ!ユー!!ギブ、ミー、マニー!」と、片方の手では「ハイ!ここに乗せて」とでも云うかのよう鎮座している。

 

    もしや、これって「この世、あの世の沙汰もカネ次第」ということなのか?

自因自果(因縁)

f:id:koushuya:20190215000137j:plain

 「環境や出会いによって、もっと言うと産まれながらにして好むと好まざるに拘わらず、いつのまにか時は過ぎ、今ここにいる自分は一体なんなん?だから、今の全てを捨てたい!!」といった類のご相談を受けることがよくある。

 

 こうしたお悩み事を受けるようになると、「吾輩も歳をとったなあ~!」としみじみ感じる。ついこの間までコチラが愚痴を言って、こぼしていたのにいつの間にか主客転倒。こんな時に、瀬戸内ハクション(晴美)がお答えすれば、「あなたの人生だからあなたの思うようにしなさい。人生は一度きりだから、あなたが決めたどおりで、それでいいのよ!」と返すだろう。

 

 いい加減な答えだと思うのは当方だけであるまい。そもそもこの手の人たちは、相談者が一定の答えを持っている時は、それを肯定し、答えが見つからない時は、納得性ある例え話を引き合いに相手の心を揺るがす。それでも相手が納得しない時は、自刃しない程度に厳しい言葉で全否定するのが彼らの手口だ。そうすると相談者はよき理解者が現れたと勘違いして全幅の信頼を置いてしまう。

 

 スピリチュアルの小原小助、キューボシ占星術の太木カス子やかつてのオラ(織田)!ブン堂もみんなこの種の人間だ。ある意味、心理操作や印象操作で「その気」にさせるのは、霊感商法オレオレ詐欺の手口によく似ている。絶体的な回答がないだけで、未経験者、素人や高齢者を相手にすれば、そのやり易さは効果抜群だ。

 

 そもそもご相談者は、向こう岸の人間にお答えを求めているのではなく、こちら側の岸の人間に救いを求めている。だから、相談事を全て否定されるような回答や意見を望んではいない。そうしたことを彼らは完全に見抜いている。

 

 それに自分の人生を左右するような一大決心は、他人に相談するようなことではない。そこ(相談すること)には甘えや賛同、支援、理解、正当性や妥当性を願う気持ちがあって、自らが本気で考えるときには、真剣に考えればこそ黙って独断し行動すべきだろう。

 

 学校を中退するとき、絶交するとき、好きな恋人と別れるとき、家出するとき、家庭を捨てるとき、離婚するとき、会社を辞めるとき、転職するとき、限界が限界に達したとき、一つひとつの理由、原因や背景を誰にも説明する必要はない。なぜなら説明すること自体が相手に「止めて欲しかった!」との淡い期待を持っているからだ。

 

 自らが答えを出した時、何も言わず黙ったまま行動に移す。自らが窮地に立ったこと、病気になったことを悔いたところで、窮地は脱しえず病気も治らない。すべては10年経てば、みな一笑に付される笑い話になる。

 

     この世に起きるすべからく起きる全てのこと(森羅万象)は、因と縁によって果がもたらされている。明日2月16日号のテーマは、「仏」のココロだ!

 

勘酒

f:id:koushuya:20190214000401j:plain

 早速、当ブログ2月12日号(教訓シリーズ3-3)を掲載後に、とある御仁から当方あてにいきなり一通のメッセージ・メールが送られてきた。これほど、「教訓、教訓・・・」と連載すれば、オランホウから催促しなくても否が応でも反応せざるを得なかったズラカ?時に!ナヌ!今日、今日は、モシヤもしやの14日、バレンタインデーてか?

 

 しかも御仁は酒飲みの照れ隠しか、当方に教養がないことを知ってのことか、粋にもバレンタインデーにあてて于武陵(う ぶりょう)の漢詩「勘酒(酒を勧む)」で返してきた。

 

    一見してこの詩、何の意味かさっぱり分からなかったが、漢字をゆっくり追えば中卒の当方でも何となく意味が解るから不思議だ。

 

「勧君金屈巵」

「満酌不須辞」

「花發多風雨」

「人生足別離」

 

 糠釘流で意訳すれば「波々と注がれた金杯で酒を酌み交わそう」と僕がそういったら、「君はそれを断ってはいけない」「だって僕は君が酒好きだということを一番知っているから」「それにそれが原因で君が大病に罹ったことも良く解っている」「人生は雨の日もあれば、風の日もある、そして百花繚乱に咲いた花もやがて風に舞って散っていく」「誰しもそんな満足な人生を過しているわけでもない」だから「ツベコベ云わずにまあ一杯どうだ」「こうして酒を酌み交わしている時でも、お互いに別れは来るかもしれない」「病になってもならなくても、サヨナラだけが人生だ!あばよっ!!」てな、ところかな?

 

 でも、この詩は有名な漢詩でいろいろ調べてみると、結構奥行きのある詩らしい。

 

    過去の文学家も一歩踏み込んだ解釈をしていて、「人生は一期一会、出会いも、その時も刹那のごとく一瞬で過ぎ去ってしまう。今楽しんでも、今苦しんでも、人生は短く、この先の人生にいつ何が起きるかも分からない。今を楽しめれば、それはそれでよいのかもしれない。楽しめる時こそ大いに楽しんでおかなければ次の山も越えられないだろう、そうしなかったら悔いも残るではないか」、てな、解釈も成り立つと聞く。

 

f:id:koushuya:20190214000449j:plain

 ネェー(無い)智慧を絞ってそれほど深く考える必要もネェズラ!単に「養生して元気になったらまた飲むズラ!」「イカズゴケのミノリやミッチャンも含め、あいつラもこいつラもみんなおメェーのケェリを待ってるツーコンジャンケ!ホウシタラ最後のシメは甲州のニゴリ酒でイッペエどうデェ!」的なメッセージかもシレンチュウコンデ。酒が飲めレバ、酒飲みはウントイロンナ手を講じてくるツーコンヅラ。ホレジャア食道、胃や肝臓がいくらあっても足りんズラ。

 

f:id:koushuya:20190214000530j:plain

    ベコじゃあるメェし!!!オランチの牛田猛(ウシダ タケシ)、モー(猛)勘弁!シテクリョウシ!!

体得と心得

f:id:koushuya:20190213000221j:plain

 オートマチック自動車を運転する高齢者になぜ事故が多いのか?それは、運転免許を取得した時の環境が大きく影響している。当方が幼少の砌、運転免許などもないままにダイハツのミゼット(オート三輪車)の荷台に牛のベタ(糞)をたっぷり積んで狭い野良道を爆走していた。時あたかも小学4年生。

 

    野良道には轍がしっかりと残っていて、子供が運転しても滅多に脱輪もしなかった。そうした運転感覚を今でも体(カラダ)が覚えている。だから、原付自動二輪車大型自動二輪も教習所に通うこともなく、実地試験も学科試験も一発で合格した。

 

   流石に普通自動車運転免許や大型自動車運転免許は、公安委員会指定教習所に通って取得した。でも、当時は「オートマチック」なる車は一台もなくすべてが「コラムシフト仕様」の車ばかりだった。つまり、運転教習は全て5段ミッションのシフトレバーと「アクセル、ブレーキ、クラッチ」ペダルを上手く使い分け、「坂道発進」やクラッチを微妙に滑らせながら、ギアを上手く使い分けて車の発進とスピードを制御した。こうした繊細な感覚は今でもカラダが全部覚えている。

 

   けれど今や、殆どの自動車が卍鍵穴型のギアシフトなしの「AT車」が主流で、しかもペダルはアクセルとブレーキのみだ。だからお年寄りがバックギアを入れ間違え、勢いブレーキを思い切り踏み込んだつもりが、アクセルを踏み込んで店内に突っ込み「ハイ!終了!!」と相成る。ここに車の仕様変化に追いつかない高齢者のカラダが覚えてしまった体験不幸がある。

 

 こうしたことは、わが子、幼児、児童や生徒に対する躾と虐待や体罰との違いにも通じるものがある。昔は行儀や不始末をすると「お灸をすえる」と称して、お灸の熱さを身が覚えた。また、「生活指導」と称して、職員室で他の教員のいる前で担任に小突かれ、殴られ、丸刈りにされたこともあって、そうしたことで自らが起こした悪さをカラダが自覚した。その一方で喧嘩も良くしたが、喧嘩をするたびに「ケンカのやり方」を学習し、致命的な殴り方や道具を使って相手がカタワになるまでやり込まなかったし、警察沙汰にもならなかった。

 

 いまや、自らのカラダが覚えないままに法律や規則が一層厳格となり、世間の価値観も常識も大きく変わった。「躾」に対する考え方、「笑い」や「怒り」の本質も変わった。

 

 政治家、役人や企業家に限らず、家庭の親子、教師と教え子、それに炎上が堪えないバカッターに煽り運転野郎。こうした連中が育った時代背景を考えたとき、自らの「痛み(イタミ)」の経験を持たない「救いようのないバカ」が余りにも多すぎることに気づかされる。