koushuyaの徒然日記

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

MY DEAR

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  人は産まれながらにして運命を背負されています。明日あるのかどうかをも判らないまま、独りで歩んで行かなければならないのです。この世に生れてきたことを決して後悔してはいけません。時に、親や兄弟に支えられ、時に友人や知人に支えられても物足りないかもしれません。でも、そのか細い心に勇気を振り絞って現実に立ち向かって行きましょう。

 

 唯一、宿命や運命に抗えることが出来るとすれば、それは、どんなに小さくても少なくても良いから、どんな場面にあっても「希望」と「夢」を持ち続けることです。それが出来なければ、貴方はもはや「死に体」。生きている価値さえ奪われてしまいます。それに自暴自棄になることは、何の意味もありません。過去を振り返えれば、振り返るほど、怨み、つらみを口にすれば、口にするほど、今、嵌り込んでしまった底なしの泥沼からは一歩も抜け出せませんからね。

 

 これまで出会った数少ない人たちをみても、まともに育った人間や自分の思い描いた人生をその通りに送っているなど人など何処にもいませんでした。その事だけはお伝えしておきたいと思います。人生は足し算ではありません。誰とて幸せな人生なぞ一生続かないものなのです。

 

 もし人生が引き算だとすれば、引く数を少なくしてみることによって、少しだけ幸福感が味わえるかも知れません。

 

 常に、穏やか心、温かい心を持っていれば、貴方の目の前にこれから起こり得るのであろう変化にも動じることもないでしょう。家族がいれば、仲間が入れば、親友が入れば、助けてもらえるなどと思うことなどは、ハリボテの救世主が現れた錯覚を起こし、そう思うことは、貴方にとって余り良くない事だと思います。

 

 お医者さんが神でもない限り、病気は完全には治せないのと同じことなのです。だからといって、「諦めろ」と言っている訳でもありません。いま、私は貴方に慰めや同情からこんなことをお伝えしようしているのではないことだけはご理解ください。

 

 周囲の気持ちだけではどうしようもない「現実」があることだけはしっかりと受け入れてください。

 

(今日のおまけ)

【第1段階:否認と孤立】

    自分が不治の病であることを知ったとき、多くの患者は、不安と恐怖からそれを否認するという。これは一時的な自己防衛であり、本能的に自分の心を守ろうとする、人にとって必要な反応だ。患者によってはその後、部分的受容へ移行する場合や、孤立に向かう場合もあるとのこと。

 

【第2段階:怒り】  

    絶望的な告知を一度は拒否したものの、やがて「ああそうだ。決して間違いなんかじゃない」と新たな反応が生じてくる。そして次に「なぜそれが自分なのか」という疑問とともに、怒りや妬み、憤慨が表出する。怒りはあらゆる方向に向けられ、周囲の対応は困難になる。しかしそんな状態にあっても理解され、大切にしてもらえる患者は、自分が愛されていることを知って、怒りがおさまるという。

 

【第3段階:取引】

      当初は現実を直視できなかった患者が、自分以外の人間や神に怒りを覚え、やがて「避けられない現実」を先延ばしできないものかと交渉を試みる。善行の報酬として願いを叶えてもらおうと、神と取り引きするのだそうだ。患者と個別面談をした際に「教会に奉仕する」「延命してくれるなら自分の体を科学に提供する」と約束した患者が大勢現れ、キューブラーを驚かせたという。

 

【第4段階:抑鬱

    手術や再入院など、もはや自分の病気を否定できない状況になってくると、苦悩や怒りは、大きな喪失感にとって代わる。さらに治療による経済的負担や職を失うことなどが、抑鬱状態を招く原因となる。その一方で、死期が近いほど、この世との別れのために心の準備をしなくてはならない苦悩にもさいなまれる。この時期周囲の人間は、励ますよりも、黙ってそばにいることが望まれる。

 

【第5段階:受容】

   これまでの段階において、周囲から何らかの助言が得られれば、患者はやがて諦めの境地に至り、自分の運命を受け入れられるように変化する。そしてある程度の期待をもって、最後の時が近づいてくるのを静観するようになるという。疲れきり、衰弱がひどくなり、新生児の眠りにも似た長時間の静かな眠りを好み、周囲に対する関心もまた、薄れてゆく。最終的には、恐怖も絶望もない存在となって旅立ってゆき、人生というひとつの環が完結するのだそうだ。

暦(年末シリーズ5・末巻)

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  年末になって買い求め、業者から戴くのがカレンダーや暦。日頃は、星占いでその日の運勢を占うが、朝のテレビでは必ずと言っていいほどこの星占いをやっている。運気が悪いと他局の番組にチャンネルを回し、良い運勢が出るまで回すが、どの局を見ても運勢が悪いと糞面白くもないので番組を消してしまう。

 

 さて、占いには「四柱推命」や「算名学」「姓名判断」などがあるが、中でも代表的な運勢占は、一白水星から始まる「九星気学」と、おうし座から始まる「星占い」がある。九星気学の起源は、中国の「夏」という時代に洪水の大災害があり、帝王が水工事を行い、洪水を東方の海に流したことに由来する。この時に、洛河という川から、一匹の亀が現れて甲羅に、1~9の数字が配置されていて、天意を聞くことを知ったそうな。

 

  一方、星占いは、西洋占星術の代表格で、血液型占いのようなもの。つまり、人には元々持って生まれた特性や性格があって、それが現在の星回りと合わさって、自分の運勢が導き出される。三つ子の魂100までと言いうが、生れ持ってきた性格や本質は幾つになっても変わらないのは、その人の産まれた時間と場所で左右されるという考え方。

 

    ここで、二つの占いはどちらにでも転ぶということがある。九星気学は2月3日の節分を境に運気が変わるし、占星術では微妙な日で星座が変わってしまう。生年月日はあくまで戸籍上の表記。実際に生れたのは一週間以上(出生届は産まれた日から14日以内に届け出)も前の日だったことも良くある話。 つまり、その日を取るかで運勢はがらりと変わってしまう。もし、そちらの運勢が悪ければ戸籍上の生年月日を使えばいい。     どうやらもう一度、戸籍に記載してある出生日を確認しておいた方が良さそうだ。

 

    ところで、一時、「ヘビ使い座」なる星座が出現し日がずれて困惑したことがあったが、いつの間にか12星座から消えた、あれは一体なんだったのだろう。 

 さて、貴方の星の巡りは如何ですか?当方は、最近腹下し続きで「便座」だそうだ。おあとがよろしいようで、「年末シリーズ」は本巻をもってひとまずオ・ワ・リです。

 

(今日のおまけ)

   「高島易断」で有名な高島嘉右衛門は、実業家で、趣味・教養の範囲で「高島呑象」として「易」を行ない『高島易断』という著作を著わし、政治にも影響力のあった有力な易断者(易聖)と言われている。ただ「占いは売らない」として、金銭を受け取って占いを商売とする事を大変に嫌っていた。つまり「高島易断」の名で商売をしている団体は、全部嘘っぱち!うす汚い占い業界の暗部だ。

 

    でも、やはり「高島易断」が気にかかるのは人間の嵯峨。お気に入りの神宮館の来年の暦が、まだ手許に届かない。ヨシコさ~ん、このブログご覧になっていたら一冊でいいからよろしくネ。

社会鍋(年末シリーズ4)

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  先日、実家で両親の遺品を整理していた時に学徒出陣でオヤジが使っていた軍服、軍帽、水筒に飯盒、それに指揮刀(サーベル)に刃が錆びすぎて鞘から抜けない日本刀(適法に処分済)が出て来た。

 

    それを見ながら、当方幼少の砌に出会ったことを思い出した。社会鍋と言えば、赤いたすき掛け、制帽にカーキー色(国防色)の軍服姿に、ラッパ、そして三脚につるされた鉄鍋だ。時間を巻き戻したような佇まいが、なぜか年末の街の風景にはよく似合っていて、風物詩にもなっていた。

 

    いまやこの厳つい軍服姿は変わって、ブレザー姿になったようだが、これは立派な社会福祉事業団「救世軍」が運営するもの。その起源は1894年にアメリカでの失業者の救済目的に生まれたクリスマスケトルにあると聞いたが、つい最近まで日本国内の街角ではアチラこちらに見かけたものだ。でも、最近はその機会は全くなくなった。

 

    この社会鍋なるもの、「年越し雑煮(ぞうに)」の鍋とした街頭募金の一つで、昔は「集金鍋」「慈善鍋」とか言っていたようだ。ただ、呼び名は恵まれない人を見下したような印象が持たれたため、大正末期からこの「社会鍋」と呼び名が変わった。その一方で素性の怪しい募金団体も現れて、とばっちりを受けたこともあった。そんなこともあってか、都内では「苦情が来るので救世軍だけを特別扱いはできない」と、その後、活動許可が下りなくなったとも聞く。

 

    記憶に新しいが、その社会鍋の程近い道路には、必ずと言っていいほど傷痍軍人の姿があって、お涙頂戴の浄財を募っていた。その横をお袋に手を引かれて通りかかると、ワザとその軍人にお袋が聞こえるように呟いた「戦争が終わって何年経っていると思ってるんだ!!」と・・・。案の定、夕方になるとその偽傷痍軍人は、偽のギブスを外し楚々と人並みに消えて行ったことを鮮明に思い出す。

 

    今や「ふるさと納税」が大流行の日本。当時、年配のご婦人が紙幣を折りたたんで鍋にそっと入れた姿を思い出す。名前が紹介される訳でもなく、税金控除もない。見返りとは無縁の心こそが真の浄財かも知れない。

 

(今日のおまけ)

    お得感の強い「ふるさと納税」。自治体によっては通常の何倍もの税金が納められるという。しかも納入者はふるさとであるべき市町村とは全く関係ない人たちばかりだ。この禁じ手、見返りの品を収める地元業者の製品価格が自治体から買い叩かれ、公正な流通価格が維持できないまま窮地に追い込まれているという。

 

 何もしないままに自治体は潤うかも知れないが、それに反して地元の生産者や製造業者は苦しく、場合によっては税金も納められないという。こんな悪手にバカな奴らが群がる。それを「さとふる」なるサイトが助長する。即刻やめよ!偽「ふるさと納税」!!

宝くじ(年末シリーズ3)

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  競輪・競馬・競艇に宝くじ、みんな合法のギャンブル。でも宝くじはギャンブルには当たらない。なぜなら投資金額の10分の1だが元手が返ってくる。他のギャンブルは当るか当らないかのどちらかだ。でも胴元は絶対に損をしないような仕組みとなっている。もっと言えば、寺銭を合法的に庶民から吸い上げている。そんな仕組みを知ってか、お金持ちが宝くじを買っているところも見たことがない。

 

 まあ、宝くじなんて言うものは、ほとんど当らないと思っていた方が良い。 

 では、なぜ宝くじを買うのか?それは簡単、当選した後を想像して高級車を買って、家を建てて、海外旅行に行ってくらいが庶民の夢としては妥当なのかも知れない。だって、富裕層はそんなん、みんな手に入れているぐらいだから当選金が1億、10億円と言っても驚かないだろう。

 

   で、この徳兵衛は、毎年一度だけ年末ジャンボを買う。そりゃそうだ年末と冠のついた宝くじは年に一度しか販売しないもんな?面白い言葉のいいましでしょう。しかも今年買ったジャンボはプチ(一等7百万円、二等10万円、前後賞なし)。プレーンなジャンボ(一等7億円、前後賞有で合わせて10億円)もジャンボミニ(同7千万円、前後賞合わせて1億円)。

 

 さて、当方はというとプチを三十枚(9千円)にナンバーズ4の5回継続(千円)合わせて1万円で年越しの夢を買った。さて、買い方だが、プチは前後賞が無いので当然バラ買い。ナンバーズ4は、ストレート買いではなくボックス買い。で、その4つナンバーはというと売り場前に駐車している車のナンバープレートの番号。

 

 この手法で買ったこれまでの戦績は、宝くじバラ買いで1,100円、ナンバーズ4で56,400円しかも高額当選(3万円以上で)みずほ銀行の別室で本人確認をされて上で現金を受け取った。何と気持ちの良かったこと、好かったこと。

 

 その年は、ヤケに運が向いていたらしく年末に一回だけしない電話投票(一年利用しないとこの制度は使えなくなる)による競馬の祭典「有馬記念」で特券10枚(1万円)で、見事に枠連番で10万円近くをゲットし、女房にもお年玉と称して5万円を渡した記憶がある。勿論、買ったのはその年に当ったナンバーズ4で当った番号の枠連のボックス買い、本命穴馬関係なし。6回目のリャンウッパーの筋で今年もその番号を買い続けるつもりだ。さて、その番号はこのブログのどこかにヒントが隠されていますよ。

 

(今日のおまけ)

 みなさん「投機(博打)」と「投資」の違いわかります?投資は資本にお金を投じることつまり資本の増加によって商品や会社の価値が上がるが、「投機」は博打とおんなじで機会(チャンス)に資金を投じること。したがってイチかバチかの勝負になる。

 

 株式(証券)投資とはいうが株式(証券)投機とは言わない。まあ、これも株屋の営業用語だが・・・。ではFX取引はというと、これは完全な投機、バ・ク・チ!少し儲かったくらいで有頂天になっていると、足元すくわれますぞ!

年賀状(年末シリーズ2)

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 年賀状の風習は、古くは奈良時代の木簡による年始の挨拶状だったようだ。そういえば木製の年賀状をもらったことがある。そりゃそうだがやぁ。現代のように通信手段が発達していない時代のこと、挨拶を兼ねて相手の安否知るのも大事だったのに違いない。

 

 現役時代の頃は、個人で夫婦合わせて250枚以上の年賀状を書いた時代もあった。しかも手書きで、今では考えられない膨大な作業を1週間もかけてやっていたことを思い出すと儲けにもならないことを何十年もやってきたことになる。

 

 今ではパソコンとプリンターさえあればデザインから仕上がりまで1日もあれば十分だ。もっと簡単にしようとすればスマホや携帯メールでデコメでも使って「アケオメ。コトヨロ」だけで、一斉同報でもすれば一気に何百先に送信できる。でもなー!もらった人はどう感じるのだろか「まだ、あなたのこと忘れていませんよ!」的な押し売りに近い賀状にも映る。

 

 両親の不幸があって、ここしばらく毎年、年賀状は出さなくて済んだが、今年はどうもそういう訳にはいかない。でも、現役時代から比べると今は夫婦でも100枚少々で済んでいる。削減するには、まず仕事関係、業者、付き合いの少ない人、遠い親戚の順で切っていく。

 

 それでも、相手から賀状が送られてくる以上返信せざるを得ない。厄介な話だが完全に相手が諦めるまで3~4年はかかる。

 

  本当に気持ちがあって賀状を出状する場合には、「げんきー?」「どうしてる?」「こちらは相変わらず」「好きでーす」だけでもいいから、たった一言でもいいから肉筆で言葉を添えるとそれをもらった相手にも失礼にならないし、年賀状の持つ意味が格段に違うという。

 

 さて、今年の一言何とするか?「トリアケオメ」(とり敢えず明けましておめでとう)と行くか「この先、何年年賀状が出せられるか」とか「お見舞いと香典はお早めに!」では洒落にもならないか?当方の年賀状をもらった方々年明けをお楽しみに・・・。

 

(今日のおまけ)

 当方の先輩で、毎年、私制年賀状大賞○○年なるユニークな企画をしている御仁がいる。それを自身のホームページで公表して豪華賞品がいただける仕組みだ。こうなると送る方もこの方への年賀状には自然と気を遣う。形式テンパイの年賀状は戴きませんという逆転の発想、サインなのかもしれない。

 

 当方の親戚に若夫婦で郵便局に勤めている人がいる。これもお付き合いと毎年200枚以上の年賀状を買っている。割り当てがあって、捌き切れないとチケットショップへ原価割れで買い取ってもらうそうだ。年賀状での挨拶の習慣、ボツ、ボツ曲がり角かも知れない。

 

 年賀状の今年の受付は、今月15日以降、明年1月8日まで、それ以外は10円上乗せされますぞ!!