その昔は駅前と言えば英会話教室や学習塾が多かった。今やその駅前はコンビニ、歯医者などが軒を連ねる。しかも歯医者などは夜の8時、9時まで診察してくれる。時代は随分と変わったようだ。
必要とされるもは残り時代の変化に柔軟に対応出来ない者は退場を余儀なくされる。頑固一徹、こだわり、伝統や昔ながらを重んじるものほど早死にする。
ここで毎早朝散歩する光景の一コマを紹介しよう。駅前光景の変遷は先ほどお話した通りだが、その一角にセレモニーセンタがある。駅近というのは住居に限らず何かと便利だ。弔問客や葬儀参列客を迎えるには絶好な場所なのだ。
しかも家族葬が増加している折、大きな会場や駐車場なども要らない。そんななか散歩途中に大きな葬儀会館がある。しかも駐車場は悠に50台以上も停められる。こうした大きさをもってしてもその採算は難しいらしい。
というのもその前をを通るに遺影をあまり見なくなった。遺影があれば必ず掌を合わせ「南無阿弥陀仏」を唱える。葬儀でさえこうだから、商いや事業も同じだ段々と仕事や業務の中身が変わっていく。
その会館の片隅に何やら工事が始まった。あまり大きくないプレハブのような建物が2棟作られている。しばらく通っているうちになるほどと感心した。この建物ペットや愛玩動物の葬儀場だったのだ。
その昔は「犬畜生」とかいって、庭先での鶏、豚小屋の豚、牛舎の中の牛など、母上様のご実家では稲作は勿論のこと畜産もやっていたので「乳が出ないオスの小牛が生まれると、程なく数か月で屠場に出されるため庭に繋がれ業者が迎えに来たことを思い出す」。
トラックに積まれる瞬間の悲壮な鳴き声は今も忘れない。そんなことがあってかお袋は極端にペットどころか「犬畜生」を飼うことを嫌がった。
能登半島沖地震。避難所にペットを持ち込めず半壊した自宅に戻る人も多いという。人の命か、愛玩か?それほどのことが今起きている現実だ。
駅から遠くにあるこうした長大な施設は時代の波に押し流されてしまう。柔軟で柔らか頭をしない者は、何もしなくても淘汰されてしまうのだ。人間も亦然り。いつまでも「こだわっている」と早々に寿命が来ますぞ!