Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

不作為の作為

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  少々難しい言葉だが、「不作為」=しなこと、「作為」=することだが、法律上の「不作為」は、「明確な意思や悪意を以てしないこと」をいう。だから、ただ何となくやらなかったでは「不作為」とはいわない。それでは、タイトルの不作為の作為の意味は「意識的にやらないこと/する」ということになり、犯罪の構成要件にもなり得る。

 

 ここからが本題、人は何かしていれば事が前に進むと概念的に思っているだけで、「何もしないこと」に堪えらから、あれこれと理由をつけてやろうとすると説くのは、先日ご紹介した医者の逆説を上梓した里見清一医師の弁。

 

    氏は、その書の中で「待っていれば事態は悪い方に向かう」ことが明らかな場合は、「待つ」ということは「手をこまねいて見ていること」に等しいが、さしあたり何かをしなくても出てくる結果が同じであれば、わざわざ「何か」をする必要はないという。

 

   彼は医者の立場から、「待っていれば悪い方に向かう」のが明らかな場合であっても、それでも「待っている方が良い」こともあると続ける。それは人間はどっちつかずの宙ぶらりんの状態に長く耐えることは難しいらしいと分析している。

 

    つまり、病気になって「何もしない」ことに人は耐え難く、治療に「賭けたい」気持ちになって、医者に、「待っていて、良くなる見込みがあるのか」と説かれても、それでも患者は「大博に打って出たいと」いう。ならばと、治療を一段進めた結果、治療後の生活の質(QOL)や日常生活活動度(ADL)が低下するケースも多いという。挙句に患者は「こんなはずじゃなかった」と治療したこと自体を悔いる。

 

    いまや、治療や術前の医者と患者間のインフォームドコンセントは当たり前の時代。最終的には患者本人の意思で治療を進めなくてはならない。だからこそ、医師が治療にあたって「不作為の作為」があったかどうかを立件するのは極めて難しい。 治療や手術に限らず最後に決断するのは患者自身でしかない。

 

(今日のおまけ)

 あれはこの病院、この病気はここの病院と渡り鳥のようにあちらこちらの病院を掛け持ちする患者さんも多いが、同じ病気であっても、医師の見立てによって治療方針が変わることも良くある。

 

 ただ、急患で病院に担ぎ込まれたにせよ、自分で選んだ病院にせよ、いくら医療技術が高度化しようと、その患者にとって最良で最善の治療なぞ無いよう気がしてならない。医者は専門的な知見を以てその病気の治療にあたっているだけで、専門外となる患者のメンタルケアや精神状態などを慮ってはくれない。

 

 それゆえ、周囲が患者の心に寄り添わなければ、治る病気も治らない。

 

     皮肉にも、斯いう当方も同じ病院での受診科がまた一つ増えた。