Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

ひねくれオヤジの宗教のお時間①

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 猛烈な新型コロナ感染拡大の中、国による母子(妊婦・胎児)の自宅(療養?みごろ)死が相次ぎ言葉もない。すでにこの世は修羅場だ。申しあげたき儀は山ほどあるが時宜を見て改めてご披露したい。

 

 さて、今日は副題「送り盆に彷徨って」題して・・。さる16日(月)に送り火を焚いて今年の旧盆が終わった。この時期ばかりは改宗したいと思う。それはこのお盆の風習は宗派によって霊魂の考え方が違うからだ。お盆をしない浄土真宗は迎え火、送り火も盆飾りもしない。また、供養いう考え方もなく般若心経も「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆呵」が密教的な呪文であるとの理由から唱えない。同じく日蓮宗も般若心経を唱えない。

 

 家内の実家は浄土真宗だが、亡くなった婆さん(義母)は「そんなの関係ねえ・・!」とばかりにお構いなしにお盆にはご供養をしていた。この宗派の開祖親鸞聖人の教えでは、この世で命を全うしたご先祖や故人は既に浄土に往生しているから、お盆の時だけこの世に戻って、子孫の供養を受けるようなお立場にないとされている。つまり霊魂の存在を認めていないため、ご供養はしないことが基本とされている。

 

 そこで、本日はここにいくつかの宗派の霊魂についての考え方をご披露しておく。

高野山真言宗

 霊魂の存在を認めている。生命の根源は大日如来にあり、人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体が滅びた後は再び大日如来の内に帰還するとされている。

 

天台宗

 霊魂の存在を認めている。もともと日本仏教は日本民族の霊魂観の上に成立しているとの考え方。霊魂の存在を信じなければ死者に対する儀礼も無意味となり、今、生くる者が祖や故人に関与できないとの理由からだ

 

日蓮宗

 認めている。死出の旅路の父母や家族に霊山浄土で会えるようにと、般若心経ではなく、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることでそれが叶うとしている。

 

【浄土宗】

 霊魂の存在を許容している。教義では浄土に生まれることを願う信仰のため、それには「南無阿弥陀仏」を唱えよと教える。「霊魂」の存在の有無には敢えて触れていない。

 

浄土真宗大谷派

 存在を否定している。「霊魂」や死後の存在の有無に捉われると、自分や身近な人の死を極端に怖れ、自らの死も含め死後におののく。死後の世界などあり得ないという。ここのお経は妙な抑揚をつけて唱えるのが特徴的だ。

 

臨済宗妙心寺派

 霊魂の存在を積極的には認めていない。死後、肉体が滅びても霊魂は残り続けるという断見とは正反対の考え方。「人は死んだらオシマイ」と割り切っている。

 

曹洞宗

 霊魂の存在については言及はしないが認めている。亡くなった家族のみ霊を供養し、

死後の安楽を願う思いを、禅僧のもつ力でもって供養していった歴史がある。(日本)民俗由来の考え方に葬送・供養が存在するとしている。宗派としては布教上手だが元々武家向けの宗派のため、何かにつけてのお布施や戒名が高価。

 

 同じ仏教でも、これだけの考え方がある。仏教伝来から時代時代に合った新たな宗派

が生まれ、時には為政者、時には庶民の心を掴んできた。経を唱えることで自らの心は救われ往生できると説かれてきた。

 

 こうした手法、どうにでも使えそうな気がする。信奉に信頼、信仰に開祖の教義を説くことによって人は心酔し神格化して、あたかも憎坊の説法や法話に頷き、「心は豊かに心は質素に」とばかりに、どんなに貧しくても浄財を供する。

 

 何故か女性のお年寄りを集めての羽根布団や健康器具・食品などの商品販売会や霊感ビジネスなどはそんなところを巧妙に突いてくる。昼間のTVコマーシャルはこんな「イカサマ商法」ばかりが横行している。それにしても特殊詐欺にしてもTVショッピングなどニセ商法に引っ掛かり易いのは、圧倒的に左脳でしか考えられない女性がなんと多いことか。