どれもいい意味では使われない。反面、登龍、上り、若いなどは初々しく活力があって生きている息吹を感じる。「落ち鮎」を辞書で引くと、秋、産卵のために川を下るアユ、「くだりあゆ、さびあゆ」とある。
秋の季語として「落ち鮎の哀れや一二三の簗 (やな) /白雄」などとも謳われている。この「落ち鮎」成魚だから脂の乗りもよく、若鮎や夏鮎にはない美味さがある。
その「若鮎」とは言葉通り、若くてピチピチした鮎のこと、若鮎は何ともいえない清々しい香りがあることから香魚(こうぎょ)とも呼ばれる。
同じ魚でカツオにも「戻り鰹」に「初鰹」もある。春、黒潮に沿って日本の太平洋岸を北上するカツオが「初鰹」だ。「戻り鰹」とは、春に北上し、夏の終わりから秋にかけて太平洋岸を南下するカツオのこと。脂がのってこれもまたこれで美味い。
どうやら鰹にも鮎と同じような意味や呼び名があるようだ。生育しきり、役割を終えた魚も魚齢を重ねると味はいい。そしてその魚はいずれ人の手に罹るか何もしなくてもその一生を終える。
「一時の平安に身を任せることを日また一日と重ねれば、ついには畳の上で老死するのみ」は、24歳で人生を終えた幕末の長州藩士「久坂玄瑞」が二十歳の時に謳った句だ。その玄瑞に倣って彼が残した名言をいくつかをご紹介しておく。
・ほととぎす 血に泣く聲こえは 有明の 月より他に 知る人もなき
・けふもまた しられぬ露のいのちもて 千とせも照らす 月をみるかな
・世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。
「夢を実現しようとする努力は大切だ。だがそれ以上にチャレンジし続け挑戦するそうした姿勢にこそ価値がある。」そんな説法、今更言われなくても重々分かっているが、拙者、心身ともにもはやそうしたエネルギーの蓄えはない。
拙者の今の心境は、食うに喰えない老弱で老醜(臭)に満ちた「落ち鮎」、「戻り鰹」が命尽きる時をじっと待って居る。
てなことで本日午後から大学病院の専門外来を受診する「落ち目」の徳兵衛なのだ。