Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

歴史から学ぶ

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 当方の地元甲斐の武田氏は根っからの地大名や侍ではない。前にも述べたが出は常陸の国、勝田だ。何故ならばこの地に武田神社が祀られ武田菱が燦然と輝いている。

 

 武田が源氏の末裔を名乗るのには訳があって、源頼朝常陸に落ち延びた時に手助けををしたのは武田一族であるとも訊く。

 

 さて、武田氏が1582年、上洛を目指した信玄亡きあと勝頼の下、信長に朝敵とのレッテルを貼られ、尾張への進軍を前に敗走に敗走を重ね、山本勘助が築城した不夜城も一日も持たず半日で陥落。

 

    躑躅崎の武田館は偲びないと、勝頼は韮崎に新府城を築城。完工ならぬままに城を捨て、小山田信茂の手引きの信茂の居城岩殿城を目指すが笹子峠で反旗を翻した小山田を前に天目山に逃げ込むが織田信忠(信長の息子)の追討(首洗い池にて斬首)にあって、この地で武田家は滅亡する。

 

    これは史実として今でも語り継がれている。そして家臣としての振舞に非ずと後に小山田信茂も織田の手によって討ち首に合う。

 

    だが、ここには教訓がある、本能寺の変で信長も信忠も命を落とすのである。心知れたる親友、生涯の友、腹心の友、命を分かった戦友とか響きと聞こえはいいが、側近中の側近ほど危うい者はない。全幅の信頼を寄せた者ほどに苛烈に足元をスクワレル。裏切り、逆賊など近き者ほど十分に警戒せねばならない。

 

    当初より棟梁(城主・跡目)の才覚を見限った戦将「穴山梅雪」ほど危うい側用人は居なかった。いまでも歴史を辿ればJR中央線に「穴山」という駅名があること自体さえ侘しくも感じる。今でもその歴史は繰り返されている。