Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

一昨日の「八ツ峰」繋がりで・・

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 京都土産の(生)八つ橋もそうだがお江戸八百八町に胸突き八丁や山登りをした人にとっては、「八丁坂」の響きも懐かしいだろうな。かれこれ何かとこれまで「八」に因んだ格言や諺は多い。さて「八風吹けども動ぜず(八風吹不動)」をご存じだろうか?これは禅語で揺れに揺れまくった心を元に戻すことをいうらしい。

 

 武道の世界では「不動心」という言葉もあるのだが・・。何があっても動じない精神力、常に冷静さを失わない心をいう。が、禅語では少し意味が全くガチう!「八つの風」とは、人の心を揺さぶりやすい次の8つの事柄や事象を指す。「利益、衰退、陰口、名誉、賞賛、悪口、そして苦に八つ目が楽」を指すのだ。

 

 兎角 人は利益になる話を聞けば興奮し、衰退する舟には乗りたくないと思い、褒められたら嬉しくて舞い上がり、悪口を言われたら不安や怒りの気持ちが湧いてくる。そんな風に、他人の言葉によって人間の心というのは生来からいつも揺さぶられてしまう性分をそのものを持っているようだ。禅道の世界ではそうしたことを外からの声を風に見立て、どんな風が吹いても動じない心を尊ぼうと、この「八風吹けども動ぜず」という言葉に変えた。

 

 普通「動じない」などと言われると、「梃子(てこ)でも動かない」というような、非常にどっしりとしえ、頑なで頑固で意固地なイメージを想像してしまうようだ。

 

 だが、禅の道でははそうは考えないらしい。動じないことは、心が何の反応も働かせないようにすることではないらしい。むしろ、感受性は機敏に働いていて一向にかまわないことこそが人間が人となりの姿なのであるともいう。これを省みて斯くいうこの徳兵衛は、未だこの域には達していない未熟者なのである。

 

 嬉しかったらはっきりと嬉しいと感じ、悲しければはっきりと悲しいと感じればいい。重要なのは、その感じている感覚を引きずらないことらしい。戒めとしてずっと浮かれて有頂天でいてはいけない、という意味でもある。

 

 人間は頑固な動じない岩ではない。人間は感動もするし、悲しみも怒りも覚える。

 

 人の心は生きる上で必ず動くのだ。問題はその揺れた心にどう対処するかだ!「八風吹けども動ぜず」とは、揺れた心がすぐにもとの座標軸の中心XYZがゼロになる事、心の中心点に戻ってこいと教えている。

 

 つまり、人間としては喜怒哀楽はあっていいのだが、何があっても心をもとにもどす。これを復元力と云うかは分からない。でも、いつまでも感情を引きずるのは、感情に執着していることに他ならず、それは苦を生みだし、次なる感情にも悪影響を及ぼしてしまうとのこと。

 

 だから「八風吹けども動ぜず」の心は、岩ではなく、むしろ風鈴に近いもので、どんな風が吹いてもふわりと揺れてチリンと鳴る様子をいうらしい。でもね、とはいえ、動じない心なんてものはただの理想であって、実際には存在しないし、誰だって不安や怒りを感じるし、心は常に動きっぱなしである。我、未だ小心者なり・・・。