これまでに多くの方々を葬送してきた。中には当方よりはるかに若い親戚も逝った。この歳になると慶事より訃報やおくやみなどがやたらに多い。結婚式も誕生日も七五三などのお祝い事は、前もってご案内やお知らせ、それに誕生日などは毎年のことだから知らせが来なくても、手帳に記載しているのでそれを覗けばすぐわかり予定が立つ。
ところが、ご不幸は意図もせずに突然訪れる。まして闘病生活などは人に開陳するもでもなく、お見舞いをお断りする方も多い。また、身内や子供を事故で亡くす場合は、非日常的なできごとで周囲や残された者に覚悟できていないから、そのショックは想像を絶する。
つい、先ごろも肺癌、膵臓癌や脊柱管狭窄症の手術失敗で命を落とされた方々のお悔やみの知らせが届いた。彼らとは何度も酒を酌み交わし、昔話や思い出話に花を咲かせ、国家・天下や世間話を放談し、冗談を言っては笑い転げたこともつい昨日のようだ。
いまだかつて、亡くなられたことが信じられない。お宅に行けばひょいと出てきそうな錯覚にも陥る。「大切な人」とはそんな人のことをいう。世間に薄く、狭く、特段懇意にした訳でもない方の訃報には気を止めることもなく「あっ!そう、御気の毒に」と一言で流して済ませる。
後継の子供たちのために家系図を作ってみた。母方、父方の祖父母から始まり、亡くなった方は黄色でそのお名前を塗りつぶす。すると、どうだろうそのマスキングは亡父母はもとより当方の従弟や従妹までが塗りつぶされているではないか。
じっとそれを見ていると次は自分なのか家内かそれとも兄弟かと、不安と恐怖が頭を過る。小心者ほどなかなか死に対する覚悟が出来ないものだ。「覚悟」とは心の中で意志や心構えをしっかりと持つこと。危険や不幸などに相対する心の準備をすることだ。
それに対して「不覚」とは『広辞苑』には、「油断や不注意で、思わぬ恥をかいたり失敗したりする」ことだと記されている。
①精神がまともでないこと。正体もないこと。
②思慮・分別のしっかりしていないこと。
③思わず知らずすること。
④不注意や油断によって失敗すること。
⑤覚悟のできていないこと、臆病なこと。といった意味が載っている。
大乗仏教の大切な教えに「本覚」という考え方がある。平たく言うと、仏の心が具わっていることをいい、それを「覚性(かくしょう)」とも言うらしい。当方今の今は、不覚にも煩悩に覆われ、妄念に囚われている状態が繰返されている。仏心に目覚めていない状態がずーとズーと続いている。ワクチン接種券も未だに届かない。