昨日のおいけ都知事に、 当方も負けじと「言葉あそび」。「病葉(わくらば)」や「わくらば」という言葉がある。この言葉を知ったのは、その昔に中曽根美樹という歌手が「川は流れる」という歌を歌った時だったらしい。たった今ググってみたら、昭和36年の歌だ。私が小学校生のこの時だ。
その歌は、「病葉(わくらば)を/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる」 という歌い出しだった。当時の歌謡曲としてもなかなかきれいなメロディで、結構ヒットしたと思う。
が、さっぱり意味はわからなかった。
子供の耳には「ワクラバを今日も浮かべて、マチノタに川は流れる」と聞こえて、「ワクラバってなんだ?」「マチノタって、どんなにのたくってるんだ?」と思っていたのである。
「ワクラバ」に関しては、国語辞典で調べると「病気で枯れた葉」とある。「へぇ、そんな意味だったのか!」とは、驚いた。
ネットで知ったのだが、文芸の世界では、「病葉」という言葉はかなり風情のある言葉としてイメージされているようだ。
句界では、夏の季語として定着しているようだ。その意味は「夏に散る落ち葉」という意味らしく、その奥で「夏に散るのは何らかの病気を得ているのだろう」という「はかなさ」を浮き彫りにし伝えているらしい。
どうやら単なる「しわくちゃばあさん・じいさん」のようなイメージではないようだ。この句、叙情的な歌の文句の頭に使われることも多いと聞く。
高浜虚子の俳句に「病葉や大地に何の病ある」「病葉にたまれば太し雨雫」というのがある。やはり夏という季節の中にこそ、ある種のはかなさを感じさせる。
こだわった迫り方をすれば、「病葉」の「病」 という字を 「わくら」 と読ませるのは、少なくとも妙な響きだ。つまりかなり特殊な言葉で意味が深いのである。
さらに、ググってみると、「赤らむ葉(アカラムハ)」が転じて「わくらば」になったとする説と、古語の「わくらばに」(「偶然に、まれに」という意味で、今でも「邂逅」を「わくらば」と読むこともある)らしい。
「夏なのに秋のように散る」という意味合いに通じて「病葉」に転じたという説もある。
言葉の最後(期)の「ば」という音が「葉」に通じるので、なるほどそういうこともあったのかもしれない。日本語というのはかなり叙情的に奥の深い言語のようで、「病葉」を単に「病気で枯れた葉」 とだけで片づける訳にはいかなさそうだ。
明日は、「助け合い」、「共同」、「協同」、「協調」に「共助」や「協働」という響きのいい言葉に一石を投じて、次の「言葉遊び」の裏側に興じてみたい。