これ当方のニセの造語。何を言っているのかさっぱり分からんでしょうね。先日、テレ東「ガイアの夜明け」でコロワイドによる「大戸屋」買収劇と創業者一族「三森久実」と窪田現経営者との確執が描かれていた。
TV画像に見覚えのある風景を観て、「大戸屋」創業者の三森久実氏が山梨県山梨市下栗原出身(現山梨トレーニングセンター所在)のブドウ園の養子三男であることを始めて知った。その後、帝京大と東京慈恵医大と経歴の曲説はあるが、最終的には帝国ホテルの料理人を経て池袋で大衆食堂を開業した。
地元山梨のとある御仁から訊いたことだが故郷を捨てて(県)外に出た者は、立身出世し、生涯地元に留まった者は憂いた人間が多いそうだ。身勝手ながらこれを本日のタイトルの「捨立留憂」としてみた。
相いえば、東武鉄道、初代根津嘉一郎は日本の政治家、実業家で根津財閥の創始者。東京メトロを創業。
それに、早川 徳治 (早川 則次)は、戦前日本の実業家。東京地下鉄道(後の帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創立者で、日本に地下鉄を紹介・導入したことから、「(日本の)地下鉄の父」と呼ばれている。
彼は、山梨県東八代郡御代咲村(現笛吹市一宮町東新居)の生まれ。父の常富は御代咲村長を務めた人物で三女四男をもうけ、徳治はその末子。母「ゑひ(栄)」は徳治出生の翌年に死去。長兄の富平は山梨県会議員を務めた人物で、笛吹川廃河川を開拓したことで知られる小松導平も兄にもあたると地元でも知られている。
その一方、ノーベル賞受賞の大村先生と同郷、韮崎市の小林一三は、鉄道の開業と共に展開した様々な事業は、私鉄経営のビジネスモデルの創造として語られることが多い。目指したのは、甲府のような街に由来した便利で環境の良い住宅に暮らし、デパートでの買い物、観劇を楽しみ、ゆとりある生活をする。これこそが貧者の発想で、これがのちののライフスタイルの改創造へとつながった。
そんな「小林一三」と「阪急」とのご縁もさることながら」・・もそっと踏み込んでみませう。早川一族といい、雨宮、若尾なぞと交通系を創始した人らに多いのが不思議だ。JR中央線の初鹿野(現:甲斐大和)、笹子トンネルを抜け勝沼駅を過ぎると突然鉄路が大きく右に曲がりワザワザ塩山、山梨市迂回する。この訳を御存じだろうか?それ・・って。
それについては、紙幅ないので、簡単にここでご披露しよう!!
高低差があり過ぎて、わざわざ高度を下げるために技術的に遠回りをしたとと云うが、時ならぬ、当時の財閥、雨宮敬二郎(現在甲州市、旧塩山市牛奥出身)の政治力によって、地元に駅を造ろうと路線をわざわざ曲げたというのが通説だ。
この路線変更によって、いまでも特急「あずさ」でも、新宿~甲府駅間は10分間も遠回りをしている。時の、日下部、峡東地域には多くの有力者がいたが、峡中にも猛者はいた。
「国際興業創業の小佐野賢治やロキード事件の当時副総金丸信」だ。やはり、地元を捨てた「赤毛のアンの村岡花子」然り、故郷を捨てた人間ほど生命力や剛力があるようだ。どうやら、県外に出て名を挙げた者は相場師や博徒の才覚があるようだ。