Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

雑言に悪癖

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   「すまん」、「すまねえ」、「申し訳ありませんが」、「ありがとう(ゴザイマス)」。「失礼ながら」、「お世話になります」、「助かります」、「恐れ入ります」や「御親切に」と聞こえと謙譲に響きがいいフレーズだ。だが、最近こうした物言いも一升瓶をもって、醤油や油を計り売りの時代を求めたあの頃と違って、今ではそんな言葉を使う人は殆どいなくなった。

 

     でも、それはその言葉を発した人の口癖、悪癖に躾。次第によっては、意味合いが全く変わる。相手のその本心、本音が何辺にあるかを見極めることも大切なのだ。

 

 時によって、それは組織にとっては「小さな親切、大きなお世話」であり、「余計な親切」もある。弔事に焼香はおろか個人の画像を流すなど遺族にとっては「いい、お節介」にもなるのだ聖子。

 

    時に、そう申し出られれば、遺族としては故人を偲んで応諾せざるをエマイ。これを許認した人らのご神経を疑うざるを得ない。哀しみや慈しみの究極は、お別れに限らず末路は誰にもその姿を見せずに人知れずフェードアウトしたいのがこの世界。これを逆手にこれを「佳」や「良」とする企画した人の見識を疑う。如何なものかと思う?

 

    慶事、お祝い事ならまだしも、抗いて、弔事の世界に身勝手に突っ込むのは、遺族の心情を察すればこれ以上の哀しみを煽る、もしくは逆なでするので、心情的には押しかけ弔問は止めて欲しかった。

 

 多くは、重大事故、大病、不慮の事故などの情報を集めては、新興(既成)宗教団体のスタッフがこぞって「ご先祖(前世)の呪い」とか、「信心が足りない」とか、「自己の免疫力低下」だのだと、実家や自宅に押し寄せたことがあった。

 

    かれらは、ご不幸や窮地に落ち込んだ連中をターゲットに布教の狙いにする。でも、そのことは後日、医学的見地からしても全く無意味だとうことも十分に分かった。祈っていただけでは、救える命は助からない!

 

     そうういえば、数年前、ある葬儀場の受付で、闘病中の故人の病院のベットでの様子の動画が延々と流れていた。葬儀の際にこんなものを参列者に見せることも、遺族の気心も計り知れない。こんな事に感動や慈しみも無念も憶えない、遺族がこんな企画をすること自体が信じられなかった。

 

     こんなことが許容されるとは、動画を提供する側もこれを視聴するお身内の心持が信じられない。どうやら「喪に伏す」という本来の意味が全く解っていないようだ。近ければ、近いほど遺族にとってはご迷惑になることを御存じないようだ。どうやら、葬儀と告別式の違いが全く分かっていないようだ。

 

     故人に対する、本当の、本物の、慈しみ、悲しみ、哀れや想いは、形や在りし日の映像でも写真で復刻するもでのでもなく、「故人を偲ぶ心」が最も大切なのだ!

 

     さて、今日は昼過ぎから大学付属病院の受診だ。一昨日から腹痛、下痢、下血が何故か止まらない、おいらも、アベガあ―総理とおなじで潰瘍性大腸炎も「甲州屋の下痢三(造)」かいカナ?