Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

差別と偏見

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 「めくら」、「つんぼ」、「おし」、「きちがい」や「ビッコ」など、小さい頃から遣ってきた言葉は今やこうした言葉は差別用語だと指摘され、使った本人が非難されるケースが多い。でも、これって本当は、日本固有の「大和言葉」である。むりくりこうした言葉の代わりに「盲目」、「聾唖」や「狂人」などを使うのが妥当、適当だという。

 

 ここまで来ると、日本語の遣い方が制限されているようで、洋風文化を取り入れることがあたかも世界標準で、ひとたびこうした言葉を使えば日本人は差別主義集団とまで言われてしまう。子供のころ使っていた「ちび黒サンボ」も人種差別用語だとの後講釈もある。

 

   こうしたことに過敏に反応する世間を見ていると、何か不自然さと欺瞞や偽善を感じてしまうのは当方だけなのか?

 

   これらの言葉規制、実はお国やメディアが勝手に作った差別偏見主義ではないかとも思えてならない。こうした言葉を際立たせることによって、余計に差別と偏見を助長するように思える。

 

   言葉使いもそうだが、道徳やマナー、それに文化に対して、お国、条例や法律がこれを縛り過ぎてはいないか?ひとたびこうした言葉を使ったモノならハラスメントとかコンプライアンスだとかお大騒ぎする過敏な風潮や事情こそが差別を助長しているのではないか。

 

    先ごろ、男性がシャツを捲り上げる「北京ビキニ」なる文化を中国当局が規制しはじめた。ここまでくると度を過ぎてのやり過ぎとしか見えない。日本ではその昔、ステテコ姿、チヂミのシャツにカンカン帽子、かの「植木等」のあの姿を見ても誰も非難しかった。それは文化であり、誰もが道徳を逸脱したものだとは思っていなかったからだ。

 

    今や、旦那が家の中で上半身裸になっただけでも家族から蔑視される。過敏になればなるほど風俗、美徳や文化的価値観は国家統制され、教育的見地からと称して、免疫力のない国民、若者や子供たちが量産される気がしてならない。

 

    そういう言葉を躊躇わず使う当方は、文化的にも、性格的にも「片ちんば」なのだろうか?