Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

「おくやみ」を考える。

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 その昔は、これほど会葬所がなく葬儀の殆どが自宅葬だった。葬儀に金がかかることから、ご近所の協力があって、親戚から小麦や米代と称する金品も届けられたものだ。

 

 火葬も普及していなかった頃は、土葬が殆どであった。だから当時は、隣組の男衆が輪番で、葬式の陰で遺体が十文字になるように墓を掘った。先代の仏さんが数十年も前なら良いのだが、亡くなってから間がないと墓穴の掘削は死臭との闘いだ。「ばっさんが、出て来たぜ!臭くて、たまんっねえっ!」なんていうボヤキもよく聞いた。

 

   それに、通夜の夜中などは、親戚中が帰ったあとも一晩中線香を絶やさぬよう見守った。さらに、腐敗が進まないよう仏さんの脇下や股間に置かれた氷やドライアイスの交換は、専ら一番若い娘婿のお仕事だった。当方もそんな役割を何度も経験させられた。

 

 仏さんの納棺は、会葬者全員が粗末な古着を着て腰を荒縄で縦結び、その荒縄を使って棺を土に埋める。仏さんの着物は左前、わらじは逆さに履かせて旅支度の様相で野辺に葬る。現実には起きないこと、あってはならない、起きてはならない「死」が訪れたこと、だから全てを「逆さ」にするのだ。

 

 葬儀の格式や規模は、隣組や地域との付き合いや結束の証でもあった。弔問客の受付はもとより、隣家は自宅を休憩所や食事処として開放し、炊き出しや精進料理を振舞ったものだ。それがコミュニテーであり、地域の役割、使命だった。良いのか悪いのか、今やそれもなくセレモホールで淡々とスケジュール通りに葬儀が進められている。

 

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 その一方で、「お亡くなり」は、遠方の方でも新聞紙上等の「お悔やみ欄」で知ることになる。その昔は「死因」まで記載していたが、個人情報の問題なのか何時からか紙面から消えた。でも、故人の享年、喪主、職業や勤務先などを見ていると、なんでこんな若さでと、事故か病気を推測したりもする。

 

 それに比べ80、90に100歳も超えての往生となると、故人の無難で穏やかな人生を想像する。喪主が奥方であれば羨ましくも思い、ご長男や次男が名を連ねると兄弟の仲の良さ、親戚付き合いや家族構成までもが手に取るように推し量れる。

 

 たった数行のお悔やみ欄ながら、そこに人生の縮図があり、その故人の生きざまが垣間見えてくる。父母の葬儀の際に会葬いただいた方々や知り合いに不義理があってはいけないと、毎月ご利用料をお支払いしながら、地元紙のDBにアクセスし毎日「お悔やみ欄」を覗いている。いつか、この欄に当方の名前も載る。その時に自らの眼でこれを見ることが出来ないのは残念、無念。