Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

ヒトノフリミテ、ワガフリナオセ

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 今日のブログは昔の羽織、袴に甲冑姿のお話になぞらえて、現役時代から今では全く利用しなくなったモノをネタにしようと思う。名刺、背広、ワイシャツにビジネスバッグに黒革靴。それにネクタイにビジネスコート等どれを取ってみても、退職後は全く「オヨビデナイ!」。まあそのうち処分するからと、依然、「タンスの肥やし」になったままだ。

 

 そんなことを思いつつ入浴しながらスーツ、ネクタイの色合いや柄を頭に浮かべていた。当時「信用力」を一義とする勤労者としては、落ち着いたドブネズミ色の背広に地味なネクタイがやたらに多かった。当然にしてピンクやイエローの派手な色のワイシャツや花柄のネクタイなぞもない。なぜなら仕事柄、取引先の難しそうな連中のことも考え、保守本流の無難で地味ないで立ちで戦(イクサ)に臨む方が交渉を進め易いとの配慮があったからだ。

 

    でも、そこで「無難」とは、「地味」とは、「妥当」とは何か?について考え出したら「雨 潸潸と この身に落ちて わずかばかりの運の悪さを悔やんだりして 人は哀しい 哀しいものです~ね♪・・」で始まる小椋佳、作詞作曲の名曲「愛燦燦」の歌詞が浮かんだ。改めて聴くとなかなか良い歌詞じゃないか。さて、これを先ほどの話とどう繋げるか?

 

    多くの人が自分自身の絶対性を信じて生きている訳でもなく、この歌の一節のように、わずかばかりの運の悪さを悔やんだりもする。つまり、人は信念や自身の絶対的な価値基準だけで生きているのではなく、人と比べ、世間と比べては幸福を感じ、不幸を嘆いたりもする。またよその家庭や家族と比べては生活のゆとりや貧しさを感じたりもする。すべての人とは云わないが、人は生まれながらにして、他人と比べながら風変わりなことはせず「人並みに」、「無難に」といった潜在的な欲求があるのかもしれない。

 

    ここに生まれたことを未開の裸族と比べ幸せだと思い、諸外国への大量の移民や避難民をみてはニッポンに生れたことを感謝する。そこには絶対的な価値観はなく、常に自分の外にあるモノや現象を比較考慮して価値や行動を決め幸福感に浸っているだけに過ぎない。だから、そこには自らの信念や価値基準に基づく本物の価値判断、決断や決心なぞなく、ただの思い過ごしのままにモノを決め、動いているだけかも知れない。

 

    自らを引き合いに出すまでもなく、そんな人間に限って、先ほどの背広やネクタイの話のように他と比べては無難で、穏やかで、地味で、火種、争いや揉め事になるような言動も恰好もしなかったのだろう。こうした一連の言動は、決断力、実力や信念のない方々が無意識にとる自己防衛本能かもしれない。

 

    リーマンの背広姿を見ても、予備校講師の風体を見ても、着飾った映画女優を見ても、ブランド品を買い漁る人や身体じゅうにタットウーを入れている若者をみても、まともさ、自分の頭のよさ、センスの良さを微塵も感じない。それはただリッチさ、格好良さやらしさを鼓舞しているに過ぎず、他人の目を気にした虚勢や虚栄にしか見えない。だから、先ほどの「(お他人さまと比べては)わずかばかりの運の悪さを悔やんだりするから、人は哀しいものですね・・♪」の歌詞がしっくり来るのかも知れない。

 

 今になって思えば、自らの現役時代の背広姿ほど自分らしさがなく、それを見たお相手の目には、当方の姿がなんともセンスのない半端な道化師のような格好に映っていたのに違いない。時に、斯くいう貴殿のステータスは平均より上、下のどっち?