Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

イワシの頭も(無)信心から

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    当方宅は本家筋ではないので、立派な仏間はなく豪華な仏壇も置いてない。でも、分家ながら当方跡目として田舎に菩提寺を持ち、檀徒としてお寺とのお付き合いはもとより、お墓の手入れ、法事などと結構忙しい。

 

   そればかりか、拙宅にはコンパクトな家具調の仏壇を誂え、神棚などとともに毎朝のお詣にお神酒を奉納し掌を合せ祝詞も上げている。仏壇には影膳を上げ仏花を取り換えている。そうした老夫婦の朝の姿を孫たちが不思議そうな顔をしながらいつも眺めている。

 

   そうしたことも信心深いからではなく、何かけじめと云うか、一日の始まりの儀式というか、凶事が起こらぬようにと、つまらぬことに当方自身が拘っているからだ。

 

   仏壇に向かっては「仏の掌の中で生かされていることへの感謝の念」を捧げつつ般若心経を唱えながら掌を合せている。

 

    また、神棚に向かっては「祓いたまへ、清めたまへ、守りたまへ、幸いたまへ」と二礼二拍手一礼をしながら神事の真似事を行っている。

 

    まあ、「この先どちらに転んでもそれも宿命」と達観した気分になる時は、意外とその日一日がゆったりと落ち着くのは何とも不思議だ。

 

    ところで、我が家の宗派は「曹洞宗」、御本尊は「釈迦如来像」。てっきり仏壇は位牌や先祖を祀るためのものと思っていたが、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。

 

   仏壇は宅内寺院でお寺の出張所みたいなものらしい。つまり、お釈迦様や阿弥陀様を祀り、亡くなった御先祖様や自らが亡くなった時に開祖の「ブッダ」に少しでも近づけるように願って脇侍として位牌を祀り仏具が誂えてあるようだ。だから、「浄土真宗」では般若心経も唱えないし位牌を祀らないとも聞く。

 

    昨今は、家族葬直葬、散骨、自然葬や墓終いと、仏事の簡素化や簡略が目立つようになり、それに伴って親戚や近所つき合いも希薄となった。それがお金の問題なのか手間暇の問題なのかはよく分からない。

 

   でも、宗派は違うが御本尊を「阿弥陀如来像」として祀ってある仏像をよくよく眺めてみると、意外なことが分かった。

 

    印相(仏像の掌のポーズ)が親指と人差し指を丸めて「ヘイ!ユー!!ギブ、ミー、マニー!」と、片方の手では「ハイ!ここに乗せて」とでも云うかのよう鎮座している。

 

    もしや、これって「この世、あの世の沙汰もカネ次第」ということなのか?