Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

オマエハ モウ シンデイル

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   易学にはさらさら興味はないが、どうしても不可解なことがある。よく、事件や事故が発生するには、幾つもの何らかの遠因、要因があるという。そこで自戒を込めてそれを当方の立場に置き換えてみた。

 

   これまで吉報は、なんとなく分かっていたり、そんなことがあったらいいなあ~!といった雰囲気があって予感できるような気がする。ところが、これが凶事となると、訃報が突然舞い込んで来たり、良からぬ出来事に不意打ちを食らうこともある。だからその分受けるSHOCKも大きい。そのうえ、そうした悪い出来事は、その人の性格、人格や善行の多さに限らず、時として不幸に不幸が重なり、人によっては不運が連続することもある。

 

   でも、本当にそうだろうか?もしかして、その予兆が何度かあったことを簡単に見逃して、やり過ごしていたのではなかろうか?事故や病気は、偶然の突発的な出来事ではなく、そこには因果関係があるのではないか。単に運が悪いとか、自身が鈍感であるからといった単純な問題ではないようにも思う。つまり常に「割りを喰う」人は、兆しを見逃し「死神」や「貧乏神」を自ら招いているような気がしてならない。

 

    重ねて言うが不幸な目に合う人の共通している点は、その兆し(サイン)を見落とし、またはサインが出ているのに何度もやり過ごしたかのどちらかだ。耳目を驚かすような大事件も、元を辿れば小さな事の積み重ねの結果が重なり合って、起こるべくして起こっているのだ。

 

   そして余りにも不運が続くと、そうした現実を許容できず、それは誰かのせいだといってやり過ごしてしまうことも致命的だ。もしかしてその時点で何らかの手を打っていれば大事にも辛い思いもしなくて済んでいたかと思う。まさにこれこそ「後悔先に立たず」「後の祭り」なのだ。

 

   でもね、そうなったら天命を待つしかない。どんなに後悔しても過去には戻れない。だから、そこを新たなスタート地点として取り組むしかないだろう。とはいえ結果は結果、どんなに努力し手を尽くしても駄目なら、その時は「天は我を見放したか!」と空に向かって大声で叫んで開き直るしかあるまい。

 

   今日のテーマは、NHKの14日の夕方番組「ヒト、モノ、カタリ」で横須賀市福祉課の「ハカイシ課長」なる人物にスポットをあてた番組を観て感じたことだ。番組は確実に地域社会の中で、少子高齢化、孤立化や生活貧困が進んでいる現実を採り上げていた。

 

    こんな寝たきりのテレビ鑑賞三昧ばかりでは、やがて筋肉が萎えて本物の「寝たきり徳兵衛」になるかもしれない。すでに、これがその予兆やサインかも知れない。

 

 これでは、「純烈」の友井と何ら変わらない「オマエハ モウ シンデイル」(´Д⊂ヽ