Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

噺家

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  短距離走者と長距離ランナーでは、筋肉の作りが全く違う。瞬発力が求められる筋力と持久力が求められる筋力とでは、その造りが全く違う。中でも一番きついのは、ハードルでもリレーでも400メートル・トラック選手の筋力だ。 

 

  この競技は、息を止めてトラックを一周するようなものだから、体力と精神が極限の状態で競技する。ゴールで倒れ込む選手を見ていれば、どれほど過酷な競技かお分かりだろう。   さて、短距離選手は長距離ランナーにはなれないし、逆にマラソン選手は、100メートル走選手にはなれない。この間、早朝のお散歩でラジオから噺家が落語を説いていたことを思い出した。

 

 落語は、高座があって舞台もなければ、大道具もない。あるのは手ぬぐいや扇子ぐらいの小道具だけ。噺によって、観客にそのシーンを想起させ、主人公の顔つきや人柄などを想像させ魅了する。そこに落語の奥義と面白味がある。云うならば、自己完結型の独り芝居に観客がこぞって魅かれるのである。

 

    では、なぜ噺家立川談志のごとく政治家にはなれても役者になれないのか?噺家は一旦高座に上がれば孤独で相方も共演者も相棒もいない。たった、独りで間をとり、噺をオチまで持っていく。その過程がたまらなく面白い。故林家三平や園鏡が得意とした現代落語は人情や心を打つような噺がない。ただ、ただ面白さだけを追求し、ダジャレを連発するものだから話に巧みさや深みがない。つまり、こうした噺家の話は左耳から入って右耳に抜けてしまう。

 

    落語によく出てくる主人公は八っあん、おツタ、与太郎熊五郎とご隠居に大家が出てくれば話は完結する。そのうえ、キャストは勿論のこと、噺の基本は小言と駄目出し、それを観客に気づかせて悟らせるのが落語かもしれない。

 

  落語によく出てくる「おめえよ!何でそんな事も分からねぇんだ。今まで何をして来たんだ!」といった言い回しがそれを物語っている。

 

  番組の最後に春風亭昇太がこんなことを云っていた。  

 

   演劇は稽古場があってみんなで稽古して、終わって飲みに行ったりして、稽古期間のON、OFFがはっきりしていていい。落語は稽古場がないから、家でダラダラしながら、どこからが稽古でどこからが休みなのかはっきりしてないから非常に不健全だ。大事なのはもちろん本番だが、その為の稽古がちゃんと出来る人じゃないとこの道で大成することはないと断言できるとしていた。

 

  ここにこそ、噺家と役者の違いがあるような気がした。

 

(今日のおまけ)

    古い表現をすると落語家(らくごか)は、話家・噺家・咄家(はなしか)ともいう。

 

    落語家の演ずる噺は大別して二種類あるそうだ。   その一つに、落とし噺:噺(はなし)の終わりに「落ち(「さげ」とも言う)」がある噺。「落語」がこれに該当するそうだ。

 

    もう一つが、人情噺:親子や夫婦などの情愛を主に描く話。噺の終わりに「落ち」が無いから、こうした演目はあえて「落語」とは言わないこともあるそうだ。

 

    そして落語界には、厳しい徒弟(身分)制度がある。入門するとその身分は前座見習いから始まり、前座(ぜんざ)、二つ目(ふたつめ)、そして最後に真打(しんうち)となる。つまり高座の出番が前座、二つ目、そして高座のトリが「真打」となる。

 

 当方の人生、いつまでたっても前座まで・・・。とうとう最後まで「真打」にはなれなかった。