マムシ道三と信長との会見の一つに、初めて美濃の斎藤道三を紹介した時、織田信長は「であるか」の一言だけを発した。権力の頂点に登り詰めた男の言葉としては、非常に重みのある言葉だ。
これを凡人が軽々に発すると、重みどころか軽薄そのものに映る。歴史の頂点に立つ人間の一言は重い。
こと、今の世の総理大臣、日大アメフトの監督、コーチも含めて一言、一言が軽すぎる。そのことが判っていてトランプ大統領のように軽々にツイッターで発信する。策略なのか戦略なのか裏でシナリオを作っているのはペンス副大統領なのか、国防長官なのか、彼らが「不要な発言」をしない事こそが空恐ろしい。
ポルトガル人宣教師のルイス・フロイス曰く、信長は日頃から言葉を良く省略して短く言う癖があって、「であるか」は「そうであるか(分った)」という事だそうだ。
(今日のおまけ)
もう一つ信長の口癖に「是非に及ばず」がある。これは「是非も無し」ともいい、現代語に置き換えると「仕方が無い」という意味であり、腹を括って、じたばたしても仕方が無いとか、やるだけやったら、なるようにしかならないといった具合に解される。
この「是非に及ばず」は、本能寺の変で信長が誰の謀叛かと確認したところ、家臣から明智勢と聞かされて「是非に及ばず」と言ったのが通説だ。本能寺の「是非に及ばず」も「光秀なら仕方ない」という諦めなのか「事態は承知した。とり急ぎ防戦するしかあるまい」という意味にもとれる。
世の東西を問わず、歴史上の要人たちの一言、一言には重みがある。今の世周囲には、ダンマリを決め込む奴も多いが、軽口を叩く輩もあまりに多く扱いに困る。「どぎゃんとせにゃあかんぜよ!!」