Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

お勉強カルチャーを探る。

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    今日も昨日に続き地元の甲州ネタでブログを繋ぎますわ・・。不眠症については、明日以降にお話することにして。過眠症の当方、大病を患って以来、ベッドに横になるとすぐ眠りに就いてしまう。同じ病人御大は、不眠で思い悩んで色々考えると僅かしか眠れないという。当方、そのようなことはサラサラなく1日10時間以上は眠っている。寝る子は育つというが眠り続ける高齢者は、チト危ないと日ごろから自覚している。

 

    そんな当方の様子を見かねてか、家内が平日開催の「歴史文化講演会」チラシをベッド脇にまで持ってきて、講義を聴講し少しでも体を動かし脳に刺激を与えたらどうかと云う。カルチャーな世界は苦手な分野だが仕方なく渋々会場に向かう。ただ、この手の講義に集まるのは、決まって暇を持て余した変わり種の偏屈な男性高齢者が多く、女性は一人か二人がいいとこ。こんなクソ爺々らとご一緒かいなと内心は不満タラタラ。

 

    講義中、不釣り合いの素人の聴講生の当方、息を潜めてじっと講師の説明を聴く。ところが、おやお~や?お話が武田氏に及ぶ。おお!!武田信玄公のお話かと興味深く聞き入る。知る人ぞ知る、そもそも甲斐の武田一族は常陸の豪族で生粋の地場の甲州出ではない。それが証に旧茨城県勝田市に武田(ぬまお)神社なる館が一族を祀ってある。これこそ武田発祥地が常陸にあったことの証左ともなっているようだ。

 

   現ひたち那珂市の公式HPにも、この湫尾(ぬまお)神社の鳥居向かって右には「甲斐武田氏発祥の地」と記載した案内板がある。これでお分かりか、この案内には「源義家の弟義光は常陸国への進出を図って、長男義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男義清を那賀郡武田郷に土着させました。義清は地名をとって武田を名乗り武田氏の始祖となりました。」とあり、今でもこの地は「ひたちなか市武田」と呼ばれているとある。

 

   その上、室町、戦国時代の中世から江戸時代にかけて下総・シモウサ(千葉県北西部を核として茨城県古河、結城市、埼玉県幸手市三郷市から東京都葛飾江戸川区までの広範を千葉氏が支配。それ以外は古河公方小弓公方や上総氏が支配していた東南房総地区を上総・カズサという)の史書に「上総武田氏が築城した」とある。

 

    つまり、元々甲斐の武田氏は、常陸の国に発祥して下総から上総に流れて西下。やがて甲斐の領主となった。武田信玄は父信虎を追放、嫡男を世継ぎとせず、側室の子勝頼を後継に指名。親方さまを側近の山本勘助ら武田二十八将が支える。そても郡内領主小山田信茂の裏切りもあって武田勝頼の時世、織田信長の軍勢に追われ、やがて天目山で武田家は滅亡する。

    

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    ご興味のある方は甲斐大和の景徳院の山門脇に勝頼の首がはねられた「首洗池」があるので、見聞の為、是非に一度足をお運び頂きたい(佐久のピンピンころり地蔵よりオもろいかもね)。

 

   つまり、武田家一族は元々甲斐土着の豪族ではなく、東の茨城、千葉から流れ流れて今の甲斐府(未だに甲府は府中と呼ばれている)を支配した。さて、当方はというと、父のご先祖さまは辿ること「雪隠大工」、母方のご先祖は「水呑百姓」と聞く。

 

    残念ながら、どうやら拙者、武田家とは縁も坂角総本舗(ゆかり)もないようだ。