Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

安藤和津エッセイシスト(明日への言葉2-2)

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 昨日に続きラジオ深夜便での彼女の語りを長めにエッセンスを御紹介したい。勿論、ご存知の通り彼女は、数々の浮名を流し勝新太郎にバーでボコボコにされたことでも有名なかの俳優奥田瑛二の妻であり、また女優の安藤サクラの母でもある。以下は、母の介護の後にうつ病で長く精神に異常を来たした経験をもつ、彼女の発言の一部を要約し引用しここにご紹介する。

  

    私は、いつも「子供は親の言う通りには育たない。大人がやる通りに育っていく」と話します。子供は口先だけのキレイゴトに納得しないし、ものすごく勘がいいので、大人の嘘は見抜くんですね。自分の子育てが成功したかどうかはわかりませんが、何がうまくいったかと振り返った時に、正直にぶつかった事でしょうか。子供はよく見ているんです。だから、ダメな時はダメだって言ってしまった方が本当は親も楽なはず。毎日完璧を目指してしまうと無理が重なり続きません。

 

 兄弟一緒というくくりも外して見ないといけないこと。だって、兄弟だって性格も違うし、思考も違うし、感じ方も違うんですよね。だから、上の子にはこういう怒り方をしても大丈夫だけど、下の子には絶対こういう怒り方しちゃいけないとか、家族の中でいろんな鉄則が出来てくる。それをみんな十把一絡げに考えちゃうと、間違えるでしょうね。

 

    小・中学生の頃です。子供ってやっぱり異分子が嫌いですよね。突出して何か違うものを持っている子って、すごく嫌がるでしょ。私の場合には自分の出生のことなど、大人の噂話からいじめが始まって、中学の時にはもっと露骨になっていったんですね。小さい時は仲間はずれで済んでいた事が、大きくなるともっと露骨に人の面前で恥をかかされたりね。でもいじめられているという事は、自分からは、なかなか言えませんでした。子供にもプライドがある。自分のプライドが傷つくので言いたくない、っていう気持ちもあるし、あとそれを言ったら親を傷つけることになるって二重構造ですね。でも、中学の時には、登校拒否になったので、さすがに親が私をいろいろ問いつめてきました。その時に、私は言ってはいけない言葉を母親に投げかけた。

 

 「何で私をこんな環境の中で生んだの? 私はこの家を望んで生まれてきた訳じゃない」って。言ってしまった時に、気の強い母が一瞬すごい悲しそうな顔をして黙っちゃったんです。そして、その次に言った言葉が「あんたの事は私が命を懸けても守ってあげる」…ってね。

 

    その一言で私は、もう一回頑張って学校に行こうと思ったのね。母親が自分の命よりも大きく思ってくれたっていう事。それが私自身の支えになって、親をこれ以上裏切る事はできないっていう思いに変わって。頑張んなきゃって思ったんです。あの時に母親が違う言葉を言っていたら、私がどうなっていたかは……分からない。

  

   親は子供のためにいい教育をしてあげたい。いい洋服を着せてあげたい。子供のためにお金をかけてあげたい。いろいろあるじゃないですか。他の人がどんな事を言ったって、いろんなやり方があるんだけれども、それが本当に子供に愛情として伝わっているかどうかが分からない。私が母親の言葉に救われたように、親子の間に絶対に欠かせない大事なことがあるんじゃないかな。

 

 だからまずは、親の教育が必要だと私は考えています。だって、親自体が知らないんです。何がいいことで、何が悪いことなのか。私は教育の審議委員もやっていますが、本当にビックリするのが、万引きの現場に親が飛んできて、最初に「何で見つかったんだ」て怒ったり、「金を払えば済むことだろう」って、係員さんにお金だけ渡して帰ろうとするとか「どうせ取るなら、もっと高いモンとれ」なんて、もう信じられないような言動をする親が多いようです。

 

   働きながら、子育て、さらにはお母様の在宅介護を続けた8年間は、並大抵のことではなかった。記憶が無いです。その当時の。本当に目先のことをやるのに精一杯でしたね。脳腫瘍で脳の機能が低下した母は、体内時計が狂ってしまって、朝食が明け方の3時半から4時くらい。その時間に朝ごはんを作って食べてもらって、トイレに行って、その間に子供の朝食とお弁当の用意をして、子供を起こして、送り出して、自分が仕事をしに行く準備をして…。だから、ほとんど寝てなかったもん。今でもその後遺症で、2時間寝ると目が覚めるんですよ。

 

    家族のサポートにはやっぱり限度がありますよ、第一、義理の親のオムツはやっぱり替えさせられない。私もね、嫌だもん。やって欲しいとも思わなかったし、まあ、料理は手伝ってくれましたね。奥田もそれはやってくれたかな。やっぱり、私がやるしかないなって思っていて、そうするとドツボにハマるんです。疲れ、寝不足、自分の仕事のプレッシャー…それなのに介護は全然待ってくれない。時間を与えてくれない。どんどん悪くなっていく。私ね、自分ひとりで何回叫んだかわからないわよ。誰もいないキッチンで。

 

   実は、私は長い間、母が脳腫瘍だって知らなかったんです。常軌を逸した言動に対して、なんて言うか、老化が原因だと思い違いをしていました。そばにいるのも口をきくのもイヤになるぐらいどんどんとその何だか「変」だな、という度合いが増していったんです。もう本当にどうしていいのかわからないという状況の中で、憎悪が本当にピークに達しそうな頃(98年)に、脳腫瘍が発見されて、その時は初めて病気だっていわれたことを感謝しましたよね。病気だから、ああだったんだって納得がいって。それまで理由が全く分からなかったから。

 

 でも、そうなるまで日にちはかかりましたよ。あるとき、友達が家に遊びに来ていてね。彼女と私が話している部屋に母が下半身スッポンポンのままで現れたんです。オムツをもって「取替えて」って。私、もう唖然とするし、その友達もそんなものを見ちゃってどうしていいかわからないわけですよ。こうなると人づきあいできないなと思いましたね。しかも、母は気丈な人だったのに、私に対してその目がね。媚を売るような、へつらうような目。あれが一番イヤだった。むしろ、頭ごなしに「アタシが漏らしたんだから、取り替えなさい、あんた」って言われていたら、まだ救われたかな。だって、自分の前にあった大きな背中が、ある日突然いなくなったと思ったら、オムツ持って後ろに立っていたって感じでしょう。

 

    苦しい闇の中をひたすら走っているように感じる時もありました。でもある時フっと気づいたんですよ。昔は私もオムツを替えてもらっていたわけだから、「恩返し」をしているのかなあって…。随分と時間がかかりましたね、そう思えるようになったのにも。

 

    こんなエピソードもあるんですよ。母が病気になってからのある時、大も小も漏らしてしまってべチャ、べチャになってしまったんです。それで下着とパジャマを脱がせて、便器に座らせたんだけど、血圧がすごく上がっちゃってグラグラになっちゃたのね、母の身体が。でも、トイレって小さいから、私は中に入れずに、入り口のところで跪いて背中を支えてあげるしかなかった。当時の母は80キロ近くあってね。ちょっとでも動くと倒れてしまうので、前にも後ろにも動けず完全に膠着状態で。私は電話を取りに行くこともできない。そこに奥田が帰ってきたんです。

 

    もう下半身がベチャベチャな母のお尻を、奥田がヒョイッと抱えてくれて、ベットまで連れて行って、後始末を手伝ってくれたんですよ。なかなかそれはね、実の血を分けた人間でも、そういうこと全てっていうのはやりにくいこと。私は「ちょっと待って、バスタオル持ってくるから」って言ったのに、彼は「いいよ、いいよ。お母さん、僕だからいいよね」て言って。抱えてくれて、母も母で「うん」ってうなずいて、おぶさってベットに運んでってくれた。あの姿が…ああ、これで家族になったんだなって思った瞬間ですね。母が、私達家族の絆をきちんと強めてくれて安心して逝ったんだと思います。(享年82歳)

 

    語弊があるのかも知れないけど、小さい時の私の家は健康的な家庭ではありませんでした。祖母が寝たきり老人だったし、母の妹が身体障害者だったんですね。母は全部引き取って、弟も引き取って、大学まで全部出したんです。でも、やっぱりちょっと歪んだ家族だったのね。寝たきりのお婆ちゃんがいて、身障者の叔母ちゃんがいて、私は未婚の母が生んだ子で、っていうとすごく世間の形からハミ出ているわけ。ずっと、なんでこんな家に生まれたんだろうと思っていました。だから、私の夢は、ちゃぶ台を囲んで、裸電球1個の下で、ほのぼの家族が笑いながらご飯を食べることだった。

 

 ただ、どんなにいい暮らしをしていても、いい服を着ていても、お金をかけても、結局心が通っていないといい家庭とは思えないんですよ。それは何かって言ったら捨て身の愛ですね。自分よりも相手を思う心かなあ。人間って何のために生きているかっていうと、ウチの母を見ていると、人のためにどのように役立てるかっていうことだったような気がする。人様の役にどれだけたてるかということだったのかなと。今の世の中は、エゴのほうが強いじゃないですか。愛じゃなくてね。

 

 私も子育てだけに専念している時期があって、その時はいろんな葛藤がありましたね。完全に社会へのアンテナを閉じちゃっている。結局、小さいサイクルの中だけで自分が生きていく方が楽だから(笑)。でも、周りにいる先輩達にいろいろとお話を伺った時にね、仕事をしている、していないに関わらず、自分の中で社会と繋がる意識を持っている方というのは、いつまでも若々しいし、ブラックホールに陥りにくいな、というのがすごくよく分かりました。

 

    やっぱり自分がラクして生きようと思うと、どうしても人間って流されちゃうじゃないですか。自分の目的意識を子供の幸せ、夫の幸せ、あるいは自分の上辺だけの快楽っていうものに求めないような生き方というのをしている方たちを見た時、学ばなければいけないな、って思いましたね。

 

 

   人の力ですね。私だって1人で生きているわけじゃないので、いろんな人達との関わりの中で、自分は生かされているなと思う。だから、人に会うと元気になります。自分が疲れている時は、元気な人と会って元気をもらう。もちろん、自分が元気で、相手が疲れていたら、こっちが元気をあげる。ギブ&テイク。私はつきあう人の年齢層も、かなり幅が広いですよ。

 

 

ただ、絶対に欲とか損得勘定ではつきあわない。今の時代は、そういうものを重点的に考えることも多いように感じるのですが、私は相手が社長さんだろうが、フリーターだろうが、あんまり線引きはありません。その人自身がどういう人間なのかっていうことしか興味が無いですから・・。と、締めくくった。