この時期、日の出直後の午前5時前(当方起床3時半、お散歩のご出発は4時20分)に、いつも家庭菜園で土いじりをしていたはずの古希を過ぎたMさんの姿が見えない。「おはようサン!」と云っては、当方に近寄って満面の笑みでご挨拶してくれたのに・・。
実は、御大も十数年前に胃がんを患い、胃を全摘。それからというもの治療の甲斐もあって、立ち治り元気だったはずだ。でも、最近は認知予防のため「メモを取る」ようにしていたようだが「メモしたこと自体を忘れてしまう」と溢していた。心配になって御大に何度もメールや連絡をしたが一向に返信がない。ある日、突然にして「やり過ごした日常」が「非日常」になってしまうことはよくある事なのかも知れない。
早朝のいつもの散歩道、いつもの時間にご挨拶だけするだけの人を見かけなくなると、急に自分自身も不安になる。先日、散歩の途中でご挨拶した方が「食べることができ、自分の足で歩けることこそが本当の健康なんですよ」とおしゃっていたことに「そんなこと云われるまでもなく、痛い程分かっている!」と云い返したかった。
時に、ラジオ深夜便で「ロクヨン(64)」の原作者の横山秀夫が述べていたが「涙の数だけ強くなれる(^^♪」とか「体の傷は癒せるけれど、心のキズなどイヤセはしない♪」などの言葉の響きは心地よく耳にスッと入ってくる。でも、「本当にそうなのか」と、言葉に酔わないこと、酔わせられないことを強調する。「ミステリー、推理や実話小説を書くには、世間の裏側を知り、現実にいつも疑問や否定感を持つことが大切なのだ」と言っていた。
その一方で、今朝のラジオでは、小児科医の「大丈夫ですよ!」のひと言に患者や子供の心は救われる。とか、女性詩人の「山笑う、私も少しだけ笑う!」の絶妙なコメントに、本来のあるべき癒しとか、季節感と云うか、なんとも言えない生命力を感じた。
話は霧散するが、山登りも、マラソンも、ロードバイクもそうだが、無我夢中の時は「ワレを忘れる」それが魅力だと自慢げに話す方も多い。でも、少なくとも当方にとっては「それは違うでしょっ」と言い切れる。そんな時こそ、頭の中で想像や考えが巡りめいて、自分だけの世界が脳内に置かれ、自身を見つめることができる気がする。今の当方にとって、こうした貴重なお時間は朝のお散歩中に訪れてくる。
支離滅裂で訳の分からいことを考えながら、今朝も朝早くから、いつものコースで杜の小径を歩いた。森を抜けていつもの古びた家の前を通り過ぎると、不思議と懐かしい匂いがしてくる。すると「あの日に帰りたい」と思ってしまう気分になる。