なんの変化か?今週から早朝5時前には散歩に出かけられるようになった。これというのも、多少なりともメシが喉を通るようになったからだ。食が喉を通らないと何もしたくはなく、意欲も熱も沸かない。それが、突然少しずつでも食い物が喉を通るようになると自然と動きも良くなる。
季節は皐月、朝の午前4時を過ぎると辺りは白む。手術からもう半年、懐かしい筋肉の痛みと朝の香りがたまらない。いつものコースをいつもの歩幅で、いつものピッチで歩を進める。森のフィットンチットは新鮮で朝焼けも眩しい。生きしものの息吹を感じる、生命力を実感できるということは斯くものかと改めて感心する。
隣街の駅までは、ほぼ5㎞。でも、声は掛けらないが何時も同じ時刻に意外な人に出会う。彼(アサヒ)の行動を見ると、朝6時前にはこの駅にやってきて、必ずといっていいほど駅のトイレで用を済ませ、まんじりともせず上り電車を待つ。有名一流国立大学卒の学歴も、それまでのキャリアも頭も良く申し分なかったが、三長銀が破綻して、流れ流れて社に流れ着いたのは今から十数年前。しばらくして当方はこの組織を去ったが、現役社員として社に籍を置くその彼が、自分の目の前にいる。
「待合」で電車を待っているその姿は、痛ましいほど無気力、お人好しで主張のなさは昔と同じに映る。そんな彼の人生は量るべくもなく、それでいて今日も一番の電車に乗って社に向かおうとしている。どんな経歴を持ち合せていても、パッションというか、情熱というか、熱量とういうか、それが窺えない人間はいともたやすく落ちぶれてしまうのか・・。
散歩帰りに彼の姿を遠くからじっと見つめる当方。重ね重ね、声を掛けるほどの親密さもなかったので、彼の動きをただ眼で追うだけだ。早朝電車の空席に座ろうともせず、吊革につかまったまま漫然と窓の外を眺めている。
家族もいるだろうに、仕事に対する夢や希望もあるだろうに、そして自分がやりたいことも沢山あっただろうに・・。そんな、彼の後姿に自分の姿が重なった。
ふと、我に返り、山一でご一緒したKさん、日債銀で懇意にしてくれたMさん、日興でお世話になったHさん、そんな彼らが流れに、流れて今はどうしているのかと急に昔が懐かしく、もう一度会いたいと思いながら、帰りを急ぐ散歩道だった。