Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

そのココロを読み解く(その2)

 

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    産まれたばかりの赤ん坊は、母親の介助、授乳や世話がなければ生きいけない。赤ん坊はその生命と生存維持の本能を伝えるために、無意識のうちに泣いてそのことを母親に伝えようとする。ただ、その一方で子を産んだ母親も日常生活を送らなければならないので、時として乳幼児の存在自体が「ウザく」なる。

 

    だから母性を超え、父親ならずとも産みの母親が自らの子に手を挙げ虐待してしまうこともある。こうした事態に陥るケースでは、必ず云っていいほど周囲に協力者や理解者がいないことが多い。

 

    ことに経産婦は、過去に同じような経験をしているから協力者としての理解度は抜群の相談相手になるのだが、残念ながらみんなが皆こうした環境にはない。

 

 でも、そうした経験を持たない相談相手や協力者は、どことなく不安で自信がないものだから、新米のお母さんとの繫がりやコミュニケーションが上手く取れない。実はこうした関係性が一般的な人間関係であって、この母親に限らず関係が希薄な人ほど、関係を持つ人が少ない人ほど、社会を生きにくいものだと感じてしまうのだろう。

 

    このように相互作用が醸成しないと、人間同士はその存在を認め合わなくなり、やがて敵意を持ちながら相手を侵害するようになる。だから、子供や大人になり切れないコドナ達をお相手にするときは、まずは敵意がなく味方であることを相手に認識させなければならない。

 

   その信認を得るための手始めは、相手の心をほぐすための「笑顔」が必要だ。亡くなった義母が当方の子育てを見ては松本弁で「そんなにグザリますな!」をよく口にしていた。

 

    つまり「笑って、褒めて育てよ!」ということだ。それながければ、いかに親子であっても信頼関係は醸成されないということを言いたかったのだろう。

 

    ものの本によると、赤ちゃんは泣くことで相手を求め、欲求を満たそうとする。その行為は、赤ん坊に限らず人間が生まれながらにして持っている本能だともいう。心理学においては、人間は生命を維持(生き抜く)するために、常に生理的欲求、安全欲求、愛情欲求、尊敬欲求、自己実現欲求を持っているらしい。

 

    最下層の欲求が生理的欲求で、最上層の欲求が自己実現欲求へと流れていくそうだ。つまり、生理的要求や安全欲求が満たされないと愛情欲求は生まれず、自己実現も叶わないということのようだ。

 

    恋人同士でも、夫婦でも、親子でも、子弟でも、友人でも、上司や部下などどんな人間関係あっても、そこから尊厳や自己実現要求が生まれるには、生理が満たされ、安全が担保され、愛情欲求が満たされなければ、自身の尊厳の確立も自己実現も果し得ないということになる。

 

    どこの場所でも、どこの場面でも愛情が満たされず、何時も不満だけが残ると感じる人は、もしかしたら、それまで生理的な要求が満たされず、十分な安全性やポジションが確保されないまま、大人に育ってしまったからなのではないだろうか。

 

    いまさらながらこの歳になって当方も「自分を認めてもらう前に、まずは相手を認めよ!」と周囲から指摘されるのは、なんとも皮肉な話だ(明日に続く)。