Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

吾に業あらば、吾に得あり

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   さて本日午後に当方に審判が下される。果たしてどんな結末が待っているのか・・楽しみにすべくは何一つない。

 

   原因、経過、仮定(・・れば)や架空(・・だったら)の話をこの期に及んでいくら追求したところで、屁のツッカエにもならず、それによって、現実や結果が一転、二転もするものでもあるまいし。

 

   つまり、今ある結果(現実)に対してその原因(犯人捜し)を後から探ったところで何の意味もない。それこそ悶々するだけ時間のムダ~~ッア!というもの。

 

 誰にでも一生の間には自分でも想像できないほどの大きな曲がり角や転機にいくつか出くわす。それは金銭、財産、健康、職業や浮気にまつわる問題ばかりではなく、事業の失敗、離婚、死別、育児、教育や介護などあらゆる局面で誰もが試練の時を迎える。その局面をどう切り抜けていくかが、その対処如何よってその人間的な価値が決まると言っても過言ではない。

 

 中には絶望の淵に立たされ自殺や心中を選択する人もいるだろう。最後の最後まで努力と緊張を続け、それがある日プツンと音を立てて切れてしまってこうした道を選んでしまう。


 死に至るのは病死や事故死ばかりではなく、あらゆる局面が死に繋がることを誰しもが心得ておかなければならない。

 

 ただ、やってはいけないのが、自身の運命の仕組みが解らず、不運や将来不安をかき消すが為に「願掛け」、「縁起担ぎ」や「困ったときの神頼み」で、何とか運を引き戻そうと必死にご祈祷やご祈願することだけは戴けない。こうなると、ビジネスチャンスとばかりにどこそこかの新興宗教団が臭いを嗅ぎつけハイエナのように群がってくるから、要注意だ。

 

 ここでハッキリしておこう「仏法の世界では自身の運命は自身が作り出すもの」と教えている。善きこと、悪しきことに違わず自分の運命は自分の行いが生んだものであり例外なくその人自身に降りかかる。自分以外のものによって運命が決まることなど絶対にありえない。


 世間一般では、悪しきことばかりに見舞われたときに「自業自得」を使うが、本来は善行を重ねた結果についても仏教は「自業自得」と説く。

 

 そんなつまらぬことをつらつらと考えながら、珍しく毛筆を執って色紙にこう書いた。


吾に業あらば、吾に得あり 平成三十年秋彼岸 徳兵衛書

 

(今日のおまけ)
 その話に乗るか乗らないか?その時に勝負に出るか出ないか?一瞬の判断やジャッジがその後の運命を大きく変える。それは史実を振り返ってもわかること。

 

 でもね、そうは云っても、秋の宵、焼き鳥のレバをタレ(バ)で焼いて、それをつまみながら月を愛でて酔うのは至極の悦びだよね。

 

  弱きもの、汝の名は徳兵衛なり!喝!喝だ!!もう一つおまけに「ガツ(豚の胃)だ!」