徳永英明の曲に「壊れかけのラジオ」というのがあった、今日はテレビのお話。
数日前から我が家のテレビが故障して映らなくなった。サービスマンを呼ぶだけで3.800円、その上部品交換となればさらに修理代が嵩む。かの東芝から天下のソニーに乗り換えて2年にも満たないというのに。いともたやすく壊れた。
テレビの無い生活など、全く面白くないと思っていた。ところが、あに計らんや、今までテレビの番組、とくにニュースや占いの時間帯等で朝の洗面の時間とか朝食や昼食の時間を計っていたが、テレビが映らないと不思議と時間がゆっくり流れて行く。良く考えてみると、私たちの生活は必要以上にテレビに振り回されていないかと夫婦ともども反省した。
くだらないタレントのトークや、低俗な番組を楽しんでいたのでは、当方らの文化的素養は破壊される一方だ。その点、ラジオ番組のアナウンスや番組内容は不思議と聞き入ることができる。早朝散歩に携帯ラジオを持ち歩いているせいか、しっかりと番組が伝えようとしていることが頭に入ってくる。時間は掛時計を見れば足りる、テレビの音が消えている今、普段気づかなかった掛時計の秒針が「カチ、カチ」と秒を刻んでいることにも気づかされた。
ここ2、3日テレビの無い時間を過ごしているが、1日がゆっくり流れ、生活にもゆとりが出て来た気がする。テレビの朝、昼番、晩のコメンテーターのコメントといい、採りあげるニュースといい、どの放送局も輪切りのようで、各局のキャスターの視点が何処も同じく見える。 娯楽を愉しんだあの時代にはない粗削りな番組がまかり通っているのが今のテレビ文化。
ひょっとしたらインターネットにつながるパソコンとラジオと掛時計さえあれば、TVがなくても人間の生活に不自由はないのかもしれない。でも大河ドラマ「西郷どん」とNHKの朝ドラ「半分、青い」だけは視聴したい。これもこれまでテレビ文化に毒された人間(当方)の末路かもしれない。
(今日のおまけ)
NHKの放送受信料。これって、どこまでもつきまとわってくる。ワンセグに始まりインターネット流れる番組といい、すべてに放送受信料が課金される。取れるところから全て取るとの発想。これって、ジャスラック(日本音楽著作権協会)が子供たちの通う(ヤマハ)音楽教室の練習曲にまで課金するという話と同じ。
そのうえNHKの放送受信料に至っては、世帯主が亡くなっていても正式な手続きを取らなければ受信料の不払いが延々と続き、最終的に何百万円もの受信料請求訴訟があり、被告(世帯主の相続人)は敗訴した。恐るべし「犬HK!」。