Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

にわかスポーツ評論家

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   サッカー、相撲と言いアメフト、ラグビーやボクシングと格闘色が強くなればなるほど、審判の重要性が高まる。なぜなら、いくら厳しいルールや規則があったとしても、ゲームや試合で審判がジャッジをしなければ、それは単なる選手同士の喧嘩、乱闘、暴力行為でしかなくなる。こうなると、観客もゲームを楽しむどころか不快になってしまいスポーツとしての意味合いも失ってしまう。

 

 仮に、公正な審判やレフェリーの下にボクサーがKOされて死亡したとしても、それが殺人罪として問われることはない。ラガーマンが強烈なタックルを受け、それが原因で身体に障害が起きたとしても傷害罪で訴追されることもない。なぜなら一定のルールの下に公正なジャッジ(審判)がされているからだ。

 

 それには、審判をする人間の力量もさることながら、審判者の威厳や権威が尊重されなくてはならない。そのことは選手に限らずベンチも同じだ。これらが遵守されてこそ、選手も観客もスポーツ本来が持つ醍醐味が味わえるのではないか。 最近、あまりにも勝負至上主義が蔓延してしまい、審判やレフェリーを買収したり、ゲーム外で違法行為を繰り返す事件が後を絶たない。

 

 件の日大アメフト事件から始まり、高校バスケットでは延岡学園留学生選手の審判への暴行、今なお審判は警察に被害届を出さないという。明らかにジャッジに対する不満を暴行に替えたのだ。なぜ、未だに被害届を出さないのか釈然としない。アメフトやバスケ選手にあこがれている小中学生がこれらの一連の暴力行為や暴力を容認するシーンをみて、この子らが将来同じことを繰り返さない保証は何処にもないのだ。それほど関係者の責任は重い。

 

 もっと酷い醜い例を挙げよう。サッカーのW杯で、スウェーデンが韓国に1-0で辛勝した。当方もこの試合を観ていたが際立ったミスジャッジがあったようには見えなかった。

  だが、これを見ていた韓国民は、大統領政府にスウェーデン審判と代表を死刑にする嘆願書と宣戦布告の嘆願書を提出する事態にまで発展した。こうなると、もう完全にスポーツ以外の茶番劇の何物でもない。ここまで来ると観客も含めてそれを許容してしまう国民性に頭を傾げてしまう。

 

 いくらルールを厳しくしても、審判やレフェリーが毅然とした態度でゲームやプレイをジャッジしなくてはならない。誤審や抗議を恐れるあまり判定や審判が委縮することはあってはならないが。委縮や不作為が進めば進むほどビデオ判定や機械判定が進み、スムーズな試合、ゲーム運びが途切れてしまいスポーツが持つ本来の醍醐味が失われてしまうのではないだろうか。

 

(今日のおまけ)

 この予防接種をしないと1万人当たり10人が死亡する。この予防接種をしても1万人当たり5人が死亡するデータがあったとしよう。この場合、前者が不作為、後者が作為。

 

 ところで、貴方に子供がいたとしよう。さて、あなたは前後者のどちらを選択(ジャッジ)するだろうか。

 

 前者の死亡確率0.1%、後者の死亡確率は0.05%だ。どちらを選択しても死亡リスクは少なからずある。ならば、どちらを選んでも同じだから予防接種しない前者(不作為)に傾くのが人間の性。

 

 でも、この場合正解は、「前者、後者のどちらも選択しない」だ。つまり選択(ジャッジ)そのものをしない、不作為と作為の同時放棄だ。こうなるとゲームそのものが成立しなくなる。