Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

水洗

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  水に流すとは、過去のわだかまりを水に流すように、たいていは無条件でなかったことにする、という意味だ。これは日本人にありがちで、デイベートが苦手な日本人が議論や折衝、あるいは恨みを持つ相手を倒す作戦などを粘り強く続けることが不得手ためだ。そのためよく「水に流す」といった手法をとる。 ただ、それらがいい方に転べば「水に流す」ということになるが、悪い方に転ぶと突然「ブチキレて」暴れ出すという結果ともなる。

 

   身勝手な推理だが、本当の意味での「水に流す」は、精霊流しガンジス川の流れのように、俗世を去って天空に昇るようにもとれる。でも、ありのままの姿の自分本来の姿に戻してみるといった意味が分かっても、ありのままの自分の原点や出発点が分らない限り、本来の自分には戻れないような気がしてならない。

 

 わだかまり、汚れを目の前から消し去ることは、川や海にゴミを流すことではない。まして自分の家の庭に落ちた枯葉を隣の家の庭に捨てることでもない。本来の「水に流す」とは、般若心経心境の一節にもあるとおり元の姿や形にこだわらないこと、即ち「照見五蘊皆空 度一切苦厄」(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)。英訳すれば”Let It Go”ということにでもなろうか。

 

 人間は、傲慢で身勝手だ。一切のことを水に流そうとすれば、それはやがて自分の身に降りかかってくる。いま、川や河原はゴミで埋もれ、海岸ではプラスチックごみがミリ(マイクロ)単位で外洋に流れ出て、ハワイやミクロネシア諸島の海岸を汚し、それを食した海洋生物体系も歪み始めている。

 

 単に水に流すだけでは、元の姿や形には戻れない。「水に流す」とはそう容易いことではなく、実は、粘り強く果敢に未来に取り組こもうとする意志の強さ、折れない心を著す言葉なのかもしれない。

 

(今日のおまけ)

    水洗で思い出したが、公共施設やショッピングセンターに備え付けているトイレのジェット・タオル。あれは、なるべく使わない方がいいらしい。あのジェットでトイレ内の細菌を含んだ空気を拡散してしまい、手に着いた汚れた水滴が足元や衣類にも飛散するから、洗った手は自前のタオルやハンカチで拭った方が賢明だと聞いた。

 

 その前に、水道の蛇口やトイレのドアノブ、トイレウオッシャーノズルも細菌まみれだそうだ。タレントの森口博子(50歳)はかなりの潔癖症で、公共トイレの便座には腰掛けず、いつも外出先では中腰で用を足すらしい。