Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

短篇創作

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  今日29日を含めて残り3日と今年も残り僅か。今年最後のブログになるかも知れません。本年は大変お世話になりました。みなさま方におかれましてはどうぞ佳い年をお迎えくださいますことを心よりお祈り申し上げております。

 

 著作権上の問題があって、それぞれの歌詞を掲載することは出来ませんが、自分の頭の中でこんな状況を勝手に思い浮かべながら、徒然なるままに創作してみました。お時間とご興味のある方は、本物の歌詞を追いながらお読みくだされば幸いでございます。

 

  「電車に乗ってドア近くの場所に背をもたれる。車窓から流れゆく風景を見ようとして曇った窓ガラスを素手で拭いても、拭いても、一向に曇りが取れない。いつの間にか自分の瞳が涙で濡れていることに少しも気がつかなかった。懸命にここまで来たが未来が開けない。絶望と失望の中にいても夢や希望を持ち続けていないと、知らぬ間に小さな自分が壊れていってしまう。か細い心を奮い立たせようと頬をつたう涙をぬぐいながら、そっと目を閉じると、風に揺れながらアスファルトの隙間から懸命に咲こうとしているタンポポの花が風にそよぐ・・。」

 

    これって分ります?最近聞いたライブと徳兵衛の想い出の曲を重ねてみました。自己流に書いてみると、「こんなん出ました!」ってとこですかね。さて、その想い出の曲とは?   竹内まりあが唄う「駅」大川栄作が唄うさざんかの宿」それに岡本真夜が唄う「TOMORROW」

 

 いずれの曲も印象深い歌詞で、「駅」は、「見覚えのあるレインコート♪〜」の歌詞から始まる。日常のどこにもあるようなラシュッアワー、隣の車両に見た、昔、恋人同士だった男女の一瞬のすれ違いのリアリティをメロウな旋律に上手く乗せて描かれている。

 

  それに「さざんかの宿」には、渡辺淳一の「失楽園」を思い起こさせるような既婚男女の危うさが手に取るように映し出されている。二人だけで逃避した寂れた宿の曇りガラスを手で拭いても、拭いても二人の明日(将来)が見えてこない。そんな、そこはかとない儚さが浮かび上がってくる曲だ。

 

    そして最後の「TOMORROW」は、その昔に放映されたTVドラマとは違い、岡本自身が「メニエール氏病」の持病がありながら、両親の離婚や自身の離婚を経て作り上げた辛くも勇気を与える楽曲だ。その証に、歌詞には流した涙の分だけ君にも未来が開けるとある。つまり、この曲は、試練や困難に遭遇した時に、喪失感、寂寥感や憎しみを越えて背中を押してくれるようなメッセージ・ソングとして、見事に作りあげられている。

 

  (今日のおまけ)

   何でこんなお話を掲載したかというと、実は、最近、岡本真夜のライブを聴きに行ったんですね(掲載写真は会場でいただいたパンフの写真)。彼女、結構なお年なのだが遠目には若々しく見え、語りも穏やかだった。語りの中で、「東日本大震災」後の被災者に対する思いを話していた。当方も当時災害対策本部の責任者を命ぜられ、現場の指揮を執りつつ、筆舌に尽しがたい現地の悲惨な状況も目にした。

 

  善行を重ねた者も、悪行を重ねた者も、老いも若きも一瞬にして6千人以上の命が想像を絶する津波に飲み込まれた。これこそが仏のみぞ知る「殺生与奪」の世界。電柱にしがみついた母親の抱えた乳飲み子の足を「助けてぇー!」を連呼しながら引き波に流されていく老婆が必死に掴もうとする。それを猛然と振り払いその老婆を足蹴にする。まさに生と死の狭間に見る母性愛。究極の現実を直視するのは耐え難く、何とも表現のしようがない。

 

    城山三郎の遺稿「そうか、もう君はいないのか」を再び読み返しながら、年の瀬に向けてこんなブログを書いている。振り返ってみれば、当方にとって今年は、悲喜こもごもの一年でもあった。

 

 さて、来年はどんな展開がまっているのだろうか?「人は、その人の性格に合った事件にしか出会わない(文芸評論家:小林秀雄)」のだそうだ。

 

 そうだとすれば、こんな性格の当方だからこんな目に会うのかもしれない。