Koushuyaの徒然日記・オフィシャルブログ

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

飯田河原の合戦

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  遡ること今から500年前の1521年(大永元年)10月16日。駿河今川氏親の重臣福島正成武田信虎甲府市の西を流れる荒川の飯田河原で激突。この戦、福島軍15,000人の大軍に対し、手勢僅か2,000人の武田軍が勝利した。その後、その年の11月に上条河原で再激突、翌年2月福島勢は、駿河に撤退した。今でも荒川の河川敷(古戦場跡)には当時を偲んで石碑が建立されている。

 

 なぜこの話をアップしたかと申しますと、この飯田河原は実家の目と鼻の先。荒川は当方の子供の頃の遊び場だった。この川に架かる鉄橋の上で危ない遊びもした。シシギや石打でダコ(魚)を捕って河原で焼いてよく食べたり川で泳いだりもした。この荒川の土手下では毎年夏になると灯篭流しや盆踊り、それに映画の映写会などが良く催され、合間に子供クラブ対抗の寸劇大会も行われた。当時、小学生の当方、金色夜叉の「寛一お宮」で仮装して寛一役を演じ切り見事に優勝した。

 

   その時のセリフは「宮さん、アイや、お宮。よくも、よくも俺を裏切ってくれたな富山からもらったダイヤモンドに目がくらみ・・」、「お宮、今月今夜のこの月を、いやさあ来年の今月今夜のこの月を、再来年の今月今夜のこの月を、10年後の今月今夜のこの月、きっと俺の悔し涙で曇らせてやりゃざあ~!!(ここで歌舞伎風に大ミエを切った)」。不思議なことにこのセリフは小学校時代に学芸会で家臣を演じた時のセリフ「殿!山に捨てるのでございまするか」とともに鮮明に憶えている。

 

    さて話は戻るが、飯田河原の合戦と上条河原の戦に武田軍は何故勝利したか?諸説あるが飯田河原では、幟や軍旗を大量に敵軍に見せ、兵の数をごまかし多く見せた「虚兵の計(はかり)」がものの見事に奏功、上条河原の戦では夜襲をかけたことが勝因となったが、とりわけ兵の士気を上げたのは戦の最中にうまれた晴信(後の武田信玄)によるところが大きい。その後、武田家は甲斐の国を統一するが、信玄の代となって実の父親である信玄を駿河へ追放する。かのごとく山梨県人には策士が多く、気分屋で時として親をも捨てる非情人。 

 

 もし、隣に山梨県人や飯田さんが居たらご注意あれ!

 

(今日のおまけ)

    ここにきて「あおり運転」が問題視されるのか?東名高速の追い越し車線での死亡事故がきっかけとなって、警察による摘発・逮捕が相次いでいる。そんなのポケモンGOが流行り出したころから当然問題視されるべきだった。警察の黙認、怠慢としか映らないが証拠集めに捜査コストがかかるのも判るが・・・。

 

    でも、ドライブ・レコーダーを付けて通報をしたら、交通反則切符を切られるようにしたら警察も得点を稼げるうえ、優良ドライバーが増えて一挙両得じゃあねえの?それって、もしかして、ドライブ・レコーダー製作会社と警察当局が組んで、報道各社に盛んにキャンペーンをさせているとか?先回りしてその会社の株式でも買っておけば儲かりそうだ。これってインサイダー取引?こんなこと考える人は、いかにも山梨県人らしい。