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koushuyaの徒然日記

多くの方々からブログ再開のご要望をいただき、甲州屋徳兵衛ここに再び見参。さてさて、今後どのような展開になりますやら。。

その昔は

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  「昔・な・が・ら」の文化や伝統を維持すること。「昔ながらのソース焼きそば」や「昔ながらのナポリタン」といった使い方をする。徳兵衛幼少の頃は、冷蔵庫もなく、食器棚もなかったものだから、ごはんやおかずにはハエがたからぬようにハエ帳を掛けていた。勿論、水道もなく水は専ら隣近所の井戸水を汲みに行くのが、徳兵衛の日課だった。そのせいもあって、今でも胃の中には「ピロリ菌」が五万といる。

 

 さて、親子丼かたまご丼に乗せたキザミのりが原因で給食センター経由で児童がノロウィルスに集団感染した。出元は、個人営業の高齢主人が素手で海苔を掴んで機械で刻んだことによる。ノロウィルスは熱には滅法弱いが、常温だとウィルス1、2個でも経口すれば、体内で爆発的に異常繁殖することが判っている。インフルエンザもそうだが、マスクはすっぴん隠しには役立っても予防には無力で。何しろ入念な手洗いとうがいが予防には一番効くらしい。

 

   では、その昔の江戸時代はどうだったのか?当時、食べ物に関しては「あぶない物は食べない」という意識が徹底していた。江戸では、「生魚」は棒手振り(移動販売)の魚屋が売っていたが、販売範囲は限られていて、鮮度が保証できる魚市場に近い地域しか回らなかったそうだ。

 

   町中の魚屋では「干物」や「塩蔵品」が主な商品。江戸後期には「握り寿司」が生まれるが、ネタには、醤油漬け、酢締め、濃い味付けで煮るなどの処理が施され、生の物は全くなかった。また、江戸では火事が怖かったので、ご飯は一日分を朝にまとめて炊き、「白米」を食べていた。玄米や雑穀は腐りやすく腹痛や下痢の原因だったらしい。

 

  その食あたりも、尾張藩の記録には切腹で死ぬのが嫌で、トコロテンなど冷たい物をドカ食いして自殺した侍(死因は食あたり)もいたとある。衛生意識に関しては、今の感覚とは違う部分があるが、江戸城下では水道網が発達していたが、意外とその実情はその水を沸かして飲んでいたとも書いてある。

 

  ヒトの糞尿は田畑の肥料として回収され、調布や隅田川沿いの桜の木の肥料にした。したがって、今名所の桜並木もその昔は、「し尿処理施設」だったということになる。ただし、当時「細菌」という概念が無かったので、長屋の共同便所はしばしば井戸のそばに作られ、それが原因で「コレラ」や「赤痢」など伝染病に苦しめられたようだ。今や徳兵衛もそのためか、生まれながらにして頭に「ピカロ菌」、胃には「ピロリ菌」それでもって人生は「ピエロ菌」が棲みき、ついには「出禁」と「出菌(金)」が続き年々、行動範囲は狭くなり生活も苦しくなるばかりだ。

 

(今日のおまけ)

 小学生の頃は、サナダムシや回虫がヒトの体内に卵を産み付け悪さをすることもあって、虫下し(薬)を飲まされたこともよくあった。世界がまっ黄色となって難儀したこともあった。ただ、その分、免疫力が強いといった利点もあった。当時から比べると細菌も病気も増えたが、おにぎりや鮨を笹で包んだり、生姜を毒消しに使ったり、雪の下を膏薬に使ったりと、そうした昔ながらの民間療法が、案外、現代人の知識を駆使した「衛生管理」や「予防医療」に替わるかも知れない。